2019年9月

9月1日 宣べ伝える人がいなければ・・・  ローマ人への手紙10章10~15節 宣教牧師 山宮利忠

 信仰は、聞くことから始まります。福音を聞くことは、誰かが伝えてくれなければ聞くことはありません。私達は、誰かがキリストの福音を伝えてくれたからこそ、救いを頂き、そして今があります。したがって宣べ伝える人がいなければ、今の私達は救われないまま滅びの道を歩んでいたことになります。このことから何を学ぶことが出来るでしょう。
1.救いを知っている私達が、救いの道を伝えなければならないのです。
 滅びに向かう人の将来を知っている者が、その警告をせずに平然としていることがあるとしたら、それは最も愛のない仕業だと思いませんか。私達は主ご自身から、「ここに救いがあります」と伝える命令を受けています。
2.福音を伝えねばならない人は、最も身近な人からでしょう。
 考えて見てください。あなたの最も身近な人が、救われないで永遠の苦しみに会わねばならないとしたら、それはなんと大きな悲しみでしょうか。あなたの父、母、兄弟、親しい友が、燃える火の中で永遠に苦しむことなど耐えられません。
3.自分が救われる為に福音を伝えてくれた人が居るなら、その人に感謝をするのは当然なことです。
 福音を伝えてくれた人は、感謝されることを求めないかもしれません。祈ってくれた人は、感謝を求めたりしないでしょう。しかし、救いを与えて下さった主イエス・キリストに感謝をお捧げすると共に、福音を伝えてくれた人に感謝をしましょう。

聖書のことば
『 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるで しょう。聞いたことのない方を、どうして信じる事が出来るでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことが出来るでしょう。。』
ローマ人への手紙10章14節


9月8日 主に勝利をもたらした御業  詩篇98篇 宣教牧師 山宮利忠

 勝利を得た主をほめたたえよと歌われています。神は、キリストにあって如何なる勝利を得られたのでしょうか?
1.神は、奇しい御業をもってサタンに勝利を得られました。(1)
 その奇しい御業とは何でしょうか。悪しき汚れた霊、即ちサタンに勝利を得られたことによります。キリストの生涯は、サタンへの勝利の証です。その決定的な勝利は、死の武器を持つサタンへの完全な勝利をもたらした復活であり、それは又、信じて主の側に戻された者には死への勝利、罪への勝利を約束する主の完全な勝利でした。
2.神の勝利にふさわしいものは、賛美です。(4)
 新しい歌、これまで歌ったことのない歌、勝利の歌をもって神をほめたたえる歌を全世界で歌うことこそ神の御業に相応しいことです。私達は、この勝利をもって賛美することが、御名にふさわしい事であり、救われたものに相応しい歌です。神がお喜びくださる歌は、この世の匂いのする歌ではありません。御国に相応しい聖い歌であるべきです。
3.神は勝利者として世を公平にさばかれます。(9)
 主は再び世に来られて、この大いなる奇しい御業によって人類に与えられた赦しの福音を信じているかどうかを判別する為に来られます。主が来られる事を知らなかったり、知っていても準備をしていなかったりする者は、主が来られ時、歯ぎしりしなければなりません。この時の後悔は遅いのです。あなたは勝利の歌を歌う者ですか、敗北の涙を流すものですか。

聖書のことば
『 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。』
詩篇98篇1節


9月15日 我らの神は、聖である  詩篇99篇 宣教牧師 山宮利忠

 聖なる詩篇と呼ばれています。
 完全に聖なる神は、如何なる罪をも赦すことはありません。旧約の時代は、選民イスラエルを通じて、その神の聖を厳しく示されました。
1.神の器への呟きに、神は聖さをもって厳しく報われました。(4)
 エジプト脱出の使命を受けてそれを果たしたモーセに、民は荒れ野の厳しさから、幾たびもモーセに反抗し、水がない、肉が食べたい、エジプトにいた方がよかった、モーセは荒れ野に我々を導いて殺そうとしていると叫んで、モーセを殺そうともするのです。モーセに対する反抗は、神に対する反抗でした。エジプトでの苦しい奴隷の状態から救われ自由になった事を忘れた民の呟きは、時に私達の何気ない言動の中にも表れるものではないでしょうか。
2.神の器モーセは、とりなしをして赦しを乞います。(6,8)
 神は直ちに罪に対する罰を実行しようとされますが、モーセは、民と神の間に立って許しを求めます。このとりなしで、神罰は、最小限にとどめられるのです。
3.全ての罪人の為にとりなしをして下さったイエス・キリスト
 神の聖さは、不信、不従順、汚れの中にあるすべての罪人の為にとりなしをもってご自分の命の犠牲を払い、信じるものを赦していただけるように、今も尚招いておられます。救われた者は、主のとりなしがあったことを感謝しているでしょうか。聖なる神に対して、自分の罪を軽く見ていることはないでしょうか。それとも、主を十字架につけろと、呟き叫ぶ者の中に居るのでしょうか。

聖書のことば
『 われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。』
詩篇99篇9節


9月22日 主のお体に一致があれば健康です  エペソ書4章2~3節 宣教牧師 山宮利忠

 体に一致がなければ、それを病と言います。病気であればからだの働きは大きく制限されてしまいます。教会は、キリストの体ですので、からだに調和と一致があれば、健全な状態で、与えられたキリストからの使命を果たすことが出来ます。一致を妨げるものは何でしょうか。
1.頭なる主のお言葉に従わないことによります。(コロサイ1:18)
 頭の指令を受けても従うことがなければ、体なる教会は、十分に動けないのは当然です。私達キリスト信者は、キリストに従うことをもって健全な生涯を送ることが出来ると共に、この世にあっては、教会と主のお体の一部として教えと訓練を受けつつ、神の子としての成長を遂げる恵みに預かっています。主に従うことがなければ、自らその恵みを拒んでいることであり、教会の一部として、教会の一致を妨げていることにもなります。
2.主のお体の一部である事を忘れているからです。(第一コリント12:27)
 教会の一員であることは主のお体の一部であり、体全体の働きに自分を合わせて協力する努力が必要であって、自分勝手な事を慎む事を忘れているのです。
3.教会と共に苦しみ教会と共に喜ぶことをしないからです。(ピリピ1:29)
 主とともに喜ぶことは、主とともに苦しむことをも賜っています。最も苦しむものが最も喜ぶことが出来ます。教会の為に苦しむ人は,教会とともに喜ぶことが出来るのです。

聖書のことば
『 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』
エペソ人への手紙4章2~3節


9月29日 主に叱られる恵み  ヨハネの黙示録3章14~22節 宣教牧師 山宮利忠

 私たちの誰しもが叱られることは嫌いです。できれば褒められていたいのです。しかし、私達は叱られなくてよい程立派ではありません。神は私たちを愛しているが故に叱ったり、懲らしめたりされると教えられています。ラオデキヤ教会の信徒が何故主に叱られたかを見て学びましょう。
1.彼らは、どっちつかずでした。(15~16)
 熱くもなく冷たくもない生ぬるい信仰だったのでしょう。即ち、はっきりしない態度でした。その理由は、自分の本当の姿を知らないために、真剣な求道と救いの価値が判らないでいたのです。その結果、主なるイエス様を自分の心の外に締め出していて、わたしを心の中心に入れよと、いつも外で心の戸をたたかねばなりませんでした。
2.ですから、イエス様は、お叱りになります。(19)
 ことばで教えてくださいます。その多くは、礼拝において主に立てられた説教者のメッセージによって戒められます。もしメッセージを聞くことをしなければ、日々の生活の中で生ける御手をもって懲らしめの行動をなさいます。
3.叱られる恵みに預かる時どうなるでしょうか。
 目を覚まして、それが主のなさったことだと判れば、そのことによって霊的成長を遂げます。主は、愛する者を叱ったり懲らしめたりされる事を知ったら、叱られたり懲らしめられたりすることを感謝する幸いな僕になります。私達は、主のお叱りや懲らしめを恵みと受け留めて、感謝することが出来るでしょうか。聖徒の成長の秘訣は、ここにあります。

聖書のことば
『 わたしは,愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。』
ヨハネの黙示録3章19節