2021年10月


10月3日 主の愛に生きる マタイの福音書 5章38-48節 牧師 小泉 崇

 山上の説教から主の御言葉に耳を傾けています。今朝は、報復、そして隣人愛について主の教えから学びます。
 第一に、報復せずに委ねる者になることです。
 よく知られている「目には目を、歯には歯を」は同害復讐法と呼ばれますが、復讐の命令ではなく、法に基づく償いとして示された方法でした。これを復讐の正当化のために利用することが起こり得るのです。主は「悪い者に手向かってはいけません」とお語りになりました。そればかりか、右の頬を打たれるならば、左の頬を静かに向けるという姿勢が弟子たちには求められているのです。主の十字架の模範を覚えつつ、さばき主なる主の怒り、御手に委ねましょう。
 第二に、敵をも愛する者になることです。
 「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」。同胞の民、同じ神を信じる者は隣人として愛し合い、異邦人や迫害する者は敵として憎むのが当時の在り方でした。しかし主は、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とお語りになります。より積極的に愛することが弟子たちには求められているのです。
 第三に、主の愛に生きる者となることです。
 神が完全であるように神の子である弟子たちにも完全さが求められています。困難な道ですが、主の愛の中を生きる道へと一歩踏み出しましょう。主の似姿に変えられる途上にあるのですから、完成へと導いて下さる主に信頼しつつ今週も歩みましょう。

<聖書のことば>
「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
マタイの福音書 5章43-44節


10月10日 真の施し マタイの福音書 6章1-4節 牧師 小泉 崇

 マタイの福音書6章に入ります。イエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」とお語りになりました。今朝は「施し」について学びます。
 第一に、人ではなく主を意識することです。
「施し」は、当時の社会で大切にされていた善行の一つでした。様々な困難の中にある人々を社会で支える仕組みです。イエス様がここで問題にしているのは、愛の行為が偽善的につまり人の歓心を得るために行われていたことについてでした。私たちもまた主のために始めたことが、人の目を意識し、その賞賛を求めることになっていないか注意しましょう。そうではなく、主の目を意識することです。
 第二に、主の前に謙遜であることです。
 私のすべては主のものです。今の私があるのは主の愛と憐れみによることを忘れてはなりません。一方的な恵みにより罪赦され、神の子として親しい交わりの中に置かれているのです。それは現在進行形であり、永遠へと至る恵みの約束です。信仰により恵みの内を歩む私たちは、主の前にへりくだり、日々感謝しましょう。
 第三に、主の喜びを求めることです。
 日々の関わりの中で、主の愛を示すことができます。その中で一番の施しは、福音を伝えることではないでしょうか。それにより、私自身も主の恵みを再確認するのです。何が主に喜ばれることなのか、共におられる主に問いかけつつ、今週も歩み始めましょう。

<聖書のことば>
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」
マタイの福音書6章1節


10月17日 真の祈り マタイの福音書 6章5-8節 牧師 小泉 崇

 主は、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」とお語りになりました。今朝は「祈り」について学びます。
 第一に、神に向けてささげられるものです。
祈りは神さまに向けてささげられるものですが、そうではない場合があったのです。当時のユダヤでは日に数度定められた時間に祈りをささげていましたが、中には「人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈る」者がいました。自らの信仰深さを人に見せつけ、称賛を受けるために祈りがささげられていたのです。私たちが日々ささげる祈りは誰に向けられているでしょうか。私の主なる神に向けて心から祈るものでありましょう。
 第二に、神との交わりの時です。
 親しい交わりを深めるために、まず御前に静まりましょう。日々の喧騒から離れて人目を気にせず、ひとりになれる場所で主と向き合い祈ることです。祈りは神との交わりの時ですから、一方的に語りかけるだけでなく、おことばに耳を傾け、御心を尋ねましょう。祈りは生活に豊かな恵みをもたらします。
 第三に、神は待っておられるのです。
 神を知らない人のようにではなく、真実な心をもって祈りに向かいましょう。父なる神は私の必要を知り、備え、与えて下さるお方です。信頼して祈ることです。父なる神は、私たちの祈りを待っておられるのです。

<聖書のことば>
「あなたがたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
マタイの福音書 6章6節


10月24日 主の祈り(1) マタイの福音書 6章9節 牧師 小泉 崇

 主がお語りになられた山上の説教を読み進めていますが、本日より「主の祈り」と呼ばれる主ご自身が教えて下さった祈りから学びます。今朝は祈りの呼びかけの言葉からです。
 第一に、天の父への呼びかけです。
 誰に祈りが向けられるべきなのかが明確に示されています。私たちの祈りは、地上ではなく天にいます父、主なる神に向けられているものです。以前天と地は断絶状態にありました。しかし主によってつなぎ合わされたのです。私たちは天の父からの愛を受け、地上からも天の父に向かって祈ることができるのです。
 第二に、主イエスによる驚くべき恵みです。
 本来、主なる神を「父よ」とお呼びし、祈ることができるのは、罪なき神のひとり子イエス様のみの特権であるはずです。今私たちが恐れることなく神の御前に出て祈ることができるのは、主が十字架による身代わりの死を遂げて下さったことによります。この恵みにより私たちの罪は赦されたのです。
 第三に、神の子どもとして呼びかけることができるのです。
 天の父は主に在る者を子どもとしてお取り扱い下さいます。親がその子を愛するように深い愛を注ぎ、常にその必要をご存じのお方なのです。このお方に祈ることができる幸いを感謝しつつ、日々祈る者でありましょう。

<聖書のことば>
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。』」
マタイの福音書6章9節


10月31日 主の祈り(2) マタイの福音書 6章9-10節 牧師 小泉 崇

 先週から、主ご自身が教えて下さった「主の祈り」から学んでいます。今朝は2回目です。
 1.「御名が聖なるものとされますように」
 主は弟子たちに、「父よ」と呼びかけるように教えられた後、父の「御名が聖なるものとされますように」と祈り求めることを教えて下さいました。神はご自身の名をお持ちであり、その名は聖なるものです。他のものとは異なる、区別されたお方として認め、告白しましょう。私たちは生まれつき神を知らず、神を認めず、神に背を向けて歩む者でした。神よりも自分自身の名が世に認められ、称賛されることを願っていたのではないでしょうか。主に在る私たちは、その祈りにおいて、まず父なる神こそほめたたえられるべきお方、聖なるお方であることを認め、告白し、あがめることが大切なのです。
 2.「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
 しかし、御名が高められ、広められることを願う一方で、それとは正反対の罪支配と暗闇が広がっている現状に私たちは気づかされるのです。主イエスの福音宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。御国とは神のみこころが行われる国です。つくば教会における福音宣教の働きが、みこころにかなって御国の発展のために豊かに用いられますように、私もその働き、その歩みの中に加えられ、用いて下さいと祈りましょう。

<聖書のことば>
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」
マタイの福音書6章10節