2021年9月


9月5日 律法の成就のために マタイの福音書 5章17-20節 牧師 小泉 崇

 主がお語り下さった山上の説教を読み進めています。今朝の箇所で主は律法や預言者を廃棄するためではなく、成就するために来たと語られます。
 第一に、聖書は人の真実な姿を指し示します。
 神の民イスラエルは、神から与えられた律法をまとめ、それを守ることによって義を得るとしましたが、人は神の高い要求、基準に達することはできません。律法は私たちに罪深さを知らせるために与えられているのです。それにより、人は救われなければならない存在なのだと知ることができます。即ち、神の前における人の真実な姿を指し示しているのです。この認識こそが救いへの第一歩です。
 第二に、聖書は私たちに救いを指し示します。
 神は律法を通して人の罪を示すだけではありません。私たちの救いのために必要なすべてのことを成し遂げて下さいました。イエス・キリストの十字架における身代わりの死と復活です。主の福音には、信じる者を罪と滅びの中から贖い出し、新しく生まれさせ、神の子として歩ませる力が満ちているのです。
 第三に、聖書は私たちに新たな歩みを指し示します。
 主は十字架の贖いを通して律法を廃棄ではなく成就し、主を信じる者を神の義にあずからせ、天の御国を目指して歩む道を示して下さったのです。かつては罪の奴隷でしたが、今は神の子として生まれ、地の塩・世の光としての役割が期待されているのです。今週も私たちは、罪から離れ、光の道を歩みましょう。

<聖書のことば>
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」
マタイの福音書 5章17節


9月12日 和解の道 マタイの福音書 5章21-26節 牧師 小泉 崇

 山上の説教を読み進めています。今朝は旧約聖書の律法を通して、主ご自身がお語りになられた神の御心に目を向けます。
 第一に、罪に対する視点です。
 モーセの十戒にも記されている「殺してはならない」という戒めは、誰もが知る当然守るべきものです。しかし主はここで、「わたしはあなたがたに言います」と、ご自身の御心をお語りになりました。神の前においては、人の外側に現わされた行為だけでなく、内側にあるものも問われているということです。兄弟に対して怒る者、蔑み、ののしる者は、「さばきを受け」「最高法院」「火の燃えるゲヘナ」において厳しく罪を問われます。
 第二に、兄弟との和解です。
 人間関係において、とりわけ主に在る兄弟との関りの中で争いや不和が生じているならば、速やかな仲直り、関係の和解が求められています。自ら一歩踏み出して赦し合い、受け入れ合うこと、これが主の御心です。しかし、頭で理解していても実際どれほど難しいことか、私たちは日々の人間関係から良く知っているのではないでしょうか。
 第三に、和解の務めです。
 最後に覚えたいと思います。神に背を向けて歩んでいた私たちに、神の方から和解の御手を差し出して下さった事実です。それは主イエス・キリストの十字架における死によって、私たちは神との和解を得、さらに和解の務めを委ねられているのです。主の愛によって、許せない人をも許し、さらに主の愛、和解の使者として今週も歩み始めましょう。

<聖書のことば>
「ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。…」
マタイの福音書5章24 - 25節


9月19日 神が結び合わせたもの マタイの福音書 5章27-32節 牧師 小泉 崇

 山上の説教から主の御言葉に耳を傾けています。先週に続いて、今朝も旧約聖書の律法に関する主の教えから学びます。
 第一に、姦淫についてです。
 主はモーセの十戒にも記されている「姦淫してはならない」という戒め(出20:14)について、先週の箇所と同様に、人の外側に現わされた行為だけでなく、内側にある罪を問われます。即ち、情欲を抱いて女性(男性)を見るならば、姦淫を犯したことになるのです。人は実に弱く、目に映った何かに誘惑され、ブレーキが効かなくなり、その手で罪を犯してしまいやすいものです。私たちもまた、自らの弱さを覚えつつ、日々誘惑に打ち勝つものでありましょう。
 第二に、離婚についてです。
 次に主は、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」との御言葉(参:申24:1)を示されます。本来は妻を保護するために与えられたものが、合法的な離婚のために利用されるようになっていたようです。主は神のかたちに創造された人を所有物のように扱う結婚の在り方、姿を問われています。自らの人間関係、結婚生活を省みましょう。
 第三に、神が結び合わせたものです。
 結婚は神が与えて下さった祝福の制度です。キリストと教会の関係にもなぞらえられています。神が一つに結び合わせて下さったものとして、互いに尊重し、外側だけでなく内側から誠実に、また真実に愛をもって築き上げられましょう。今週の歩みの祝福を祈ります。

<聖書のことば>
「ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
マタイの福音書19章6節


9月26日 真実な言葉  マタイの福音書 5章33-37節 牧師 小泉 崇

 山上の説教から主の御言葉に耳を傾けています。今朝は、誓いについての主の教えから学びます。
 第一に、真実な誓いです。
 モーセの律法では、神の名により偽って誓うことが禁じられていましたが、当時は軽はずみな、形骸化した誓いが多く見られたようです。主は神の前における不誠実さを厳しく戒めつつお語りになりますが、何よりも主なる神の約束と誓いは変わることがありません。神はご自分の御子を与えるほどに私を愛して下さいました。主の十字架に神の最高の愛が注がれ、示されています。神が私たちの信仰を、誓いをもって保証して下さっているゆえに、希望をもって歩み続けることができるのです。
 第二に、私たちの誓いです。
 私たちは信仰の歩みにおいて主への誓約をした者です(信仰告白・バプテスマ等)。日々の生活には様々なことが起こります。教会生活においても同様です。主への誓いが誠実に果たされているでしょうか。困難な道ですが、大きな祝福が伴うことを覚えたいと思います。
 第三に、真実な言葉です。
 自らの弱さ、足りなさを覚えつつも、主の恵みによって罪と死の中より救われ、主とともに歩む私たちです。みことばにしっかりと立ち、信仰をもって「はい」と言い、主が喜ばれない不信仰に対しては、はっきり「いいえ」と言える者でありましょう。今週の歩みが真実な主の御手に支えられて、真実な言葉、信仰をもって歩む日々でありますように。

<聖書のことば>
「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」
マタイの福音書5章37節