2021年8月


8月1日 宣教開始 マタイの福音書 4章12-17節 牧師 小泉 崇

 バプテスマのヨハネから受浸(バプテスマ)、そして荒野での誘惑に勝利されたイエス様について学びました。そして今朝の箇所において、宣教を開始される時がやって来たのです。
 第一に、神の時です。
 バプテスマのヨハネが捕らえられたことを聞いた主は、「ガリラヤに退かれた」(12)と記されています。決して自らに危険が及ぶことを恐れたからではありません。救い主の先駆けであったヨハネ逮捕の知らせに、神の時の到来を確信され、立ち上がられたのです。
 第二に、預言の成就です。
 主は故郷のナザレを離れ、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに移り住まわれました。マタイは、これを預言者イザヤの成就(9:1 - 2)として記しています。異邦人(外国人)が多く住み、ユダヤ社会からはさげすまれていた地、「死の陰の地」に主は「光」をもたらされたのです。
 第三に、宣教の開始です。
 ガリラヤの地で宣教を開始された主のメッセージは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。悔い改めは、心を神に向け方向転換することです。かつて私たちは、罪の暗闇の中をさまよい歩く者でありましたが、十字架により明らかにされた神の愛を知り、悔い改めをもって応答し、天の御国への希望を抱いて歩む者とされているのです。そしてさらに私たちには、この福音をお伝えする尊い働きが委ねられています。
今週も、主の福音の種を豊かに蒔き、お伝えする者でありましょう。

<聖書のことば>
「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が 近づいたから」と言われた。」
マタイの福音書 4章17節


8月8日 宣教開始 マタイの福音書 4章18-25節 牧師 小泉 崇

 主はそのお働きにおいて12人の弟子たちを選ばれました。今朝の箇所には、弟子たちの中心となっていく4人(ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ)への召しについて記されています。
 第一に、「わたしについて来なさい」との招きです。
 彼らは漁師の働きの最中にその声を聞きます。恵みと憐みに満ちた主ご自身が自ら近づかれ、親しく声をおかけになるのです。それはご自身の働きに弟子たちを参加させ、用いるために他なりません。生涯を通して主につき従っていく歩みなのです。私たちは主の招き、主の呼びかけを聞いているでしょうか。
 第二に、「人間をとる漁師にしてあげよう」との約束です。
 彼らはガリラヤ湖の漁師でした。しかしこれからは「人間をとる漁師」になると約束されるのです。主の愛、真理のみことばを人に伝え、救いへとお導きする尊い働き人にです。今も主は同様に、主の救いへと導き入れられた私たちを、この尊い働きへと招かれているのです。
 第三に、彼らはすぐに網を捨てて従ったのです。
 主の声に従っていくためには、その手にある網を捨てる必要がありました。彼らは網を捨て、舟も家族も残して従いました。主への信頼と献身を見ることができます。私たちは主の招きにどのようにお応えしているでしょうか。主にお従いしていくためには信仰の戦いがありますが、それは勝利者なる主が共におられる戦いなのです。

<聖書のことば>
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる 漁師にしてあげよう。」 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
マタイの福音書 4章19~20節


8月15日 幸いな人(1) マタイの福音書 5章1-5節 牧師 小泉 崇

 マタイの福音書5~7章までは、「山上の説教」と呼ばれています。今朝の箇所で主は、世の基準ではなく、神の視点から見た幸いについて語られています。主を信じ従う者の幸いについて学びましょう。
 第一に、「心の貧しい者」です。
 心が狭いとか卑しいといったことではなく、自分自身ではどうすることもできない無力な者であることを認め、神を仰ぎ、より頼む人です。日々自らの霊的必要を覚えつつ、主の恵みによって満たされ、豊かな臨在とお取り扱いをいただくことができますから幸いです。
 第二に、「悲しむ者」です。
 主と親しく交わることによって自らの罪を示され悲しむ人です。その人は、悲しみつつ悔い改め、赦しの恵みにあずかることができます。さらに主と同じ目、同じ心をもって世の罪の現実を嘆き悲しむ人です。悲しみの中でこそ、真の慰めを受けることができますから幸いです。
 第三に、「柔和な者」です。
 主により頼み、主の心を自らの心とし、心優しく、揺るぎない信頼をもって従順に歩む人です。そのような人は、地を受け継ぐと約束されています。神からゆだねられたものをよりよく活かし、やがて永遠の御国を受け継ぐ者とされていますから幸いです。何よりも十字架へと向かわれた主のうちにその模範を見出すことができます。
 今週も私たちは、主ご自身が「何と幸いなことだろう!」と感嘆しておられる幸いを覚えつつ、生ける神の御手に支えられ、希望を抱き歩み始めましょう。

<聖書のことば>
『そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」 』
マタイの福音書 5章2~3節


8月22日 幸いな人(2) マタイの福音書 5章6-12節 牧師 小泉 崇

 マタイの福音書5~7章までは、「山上の説教」と呼ばれています。今朝は先週の続きから、主を信じ従う者の幸いについて学びましょう。
 第一に 「義に飢え乾く者」です。
 神の目に正しいこと、神の御心に従うことをひたすら求めている人です。日々求める心をもって、聖書に祈りに生活に向かっているでしょうか。「求める者は受け」 満たしていただけるのです。
 第二に 「あわれみ深い者」です。
 他者の痛みや必要を知り、あわれみを示す人です。神の深い愛とあわれみにより罪赦され、救われた私たちです。他者にあわれみを示す者は、さらに神のあわれみを知ることとなります。
 第三に 「心のきよい者」です。
 御手により砕かれ、新しく生まれ、内側からきよくされた人です。その人は、神を見ることができます。即ち、日々の歩みの中で恵み深い主のみわざを知り、その内を歩むことができます。
 第四に 「平和をつくる者」です。
 互いの間に平和を求め、保ち、築く人です。それは神の子どもと呼ばれる者たちの使命でもあるのです。常に主の教会の中に、神の愛と平和を見出すことができますように。
 第五に 「義のために迫害されている者」です。
 主を信じ従って生きるがゆえに受ける苦しみです。迫害を喜ぶことは世の価値基準では考えられないでしょう。天の御国における価値基準だからです。今週も私たちは、喜びと感謝をもって価値ある苦しみをも選び取り、御心のうちを歩み始めましょう。

<聖書のことば>
「義のために迫害されている者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです。」
マタイの福音書 5章 10節


8月29日 地の塩・世の光として  マタイの福音書 5章13-16節 牧師 小泉 崇

 主の「山上の説教」から幸いな人について学びました。今朝は先週の続きから、主を信じ従う者の役割について学びましょう。
 第一に「地の塩」です。
主は「あなたがたは地の塩です」と言われました。昔も今も「塩」は大切な存在であり、様々な役割を果たしています。日々の食卓に上る料理の味付けには欠かせません。少量の塩を加えることにより、全体の味が引き締まり、そこに深い味わいが生まれます。私たちの語る言葉が「いつも親切で、塩味の効いたものであるように」(コロサイ 4:6)と勧められています。主の恵みに満ちた言葉を語る者でありましょう。また、塩には食物の腐敗を防ぐ働きもあります。クリスチャンは世を腐敗から守る大切な役割を持つ者です。私たちは、腐敗の根本的な原因である罪の中から救われました。日々「塩気」のあるクリスチャンとして主の救いを証しする者でありましょう。
 第二に「世の光」です。
 主は「あなたがたは世の光です」と言われました。光は暗闇を明るく照らし出す存在です。神は光を造られたお方であり、主は「世の光」として来られました。光である主を自らの救い主として信じお従いするなら、私たちも光を内に持つ者として、主の光を輝かすことができるのです。そのためには、私の能力や力ではなく、光の源であるお方の恵みを指し示していくことが求められています。全てを知っておられる主は、私たちを地の塩、世の光として用いて下さるのです。今週も主に期待して歩み
始めましょう。

<聖書のことば>
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を あがめるようになるためです。」
マタイの福音書 5章 16節