2021年7月


7月4日 悲しみの先にある希望 マタイの福音書 2章13-23節 牧師 小泉 崇

 東方から救い主を求めてやって来た博士たちは、星に導かれつつ主を見出し、最高の礼拝をおささげしました。彼らはその後、神の警告に従い、別の道から自分の国に帰って行きました。王ヘロデは激怒し、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子の命を奪うという暴挙に出たのです。喜びの出来事から一転、ユダヤの地は深い悲しみに覆われることとなります。
 第一に、罪の世の悲しみに満ちた現実です。
 愛する幼子を失った家族の嘆き悲しみは、いかばかりでありましょうか。こんなことはあってはならないと誰もが思うようなことが、今の世でも起こり得ることを私たちは知っています。それが、神から切り離された罪の世の悲しい現実なのです。
 第二に、悲しみの先にある希望です。
 このような悲しみの出来事の先にも希望があります。エレミヤは、捕囚という悲しみの先にある希望、即ち帰還について預言しました。ベツレヘムで起こった嘆き悲しみは、救い主イエス・キリストにより与えられる救いの喜び、永遠に至る希望へと変えられるのです。主は私たちの深い悲しみを大きな喜びへと変えて下さるお方であることを覚えましょう。
 第三に、ナザレ人イエスです。
 主は人々に蔑まれた地、取るに足らない場所、ナザレに住まわれました。しもべとなり、人々の悲しみに寄り添い歩まれたのです。それは罪人である私を愛するために他なりません。その最大の愛は、悲しみの道の先にある主の十字架、それは復活の希望へと至るのです。

<聖書のことば>
「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」
マタイの福音書 2章23節


7月11日 主の通られる道を マタイの福音書 3章1-12節 牧師 小泉 崇

 マタイ3章に入ります。イエス・キリストの公生涯に先立って、バプテスマのヨハネについて記されています。彼の出現はイザヤ書とマラキ書において預言されていました。今朝は主イエスの先駆者バプテスマのヨハネからです。
 第一に、悔い改めのメッセージです。
 ヨハネは「悔い改めなさい」と語りました。「天の御国が近づいたから」です。そして、多くの人が自らの罪を認め、バプテスマを受けました。悔い改めとは、心を神に向けて方向転換することであり、罪から離れ、主と主のお言葉に従って歩み始めることです。私たちは、十字架において明らかにされた神の愛に、悔い改めをもって応答し、信頼してお従いする者です。日々悔い改め、その実を結ばせていただきましょう。
 第二に、自らの使命を明確に知っていました。
 ヨハネに与えられた使命は、自分の後に来られる主イエスを指し示し、主のために道を備えることでした。 明確に自分の使命を知り、徹底してその使命に立ち続けたのです。
 第三に、自らの立場をわきまえていました。
 当時、ヨハネは注目され、彼はキリストかも知れないと思い違いをしている人がいたようです。彼ははっきりと否定し(ヨハネ1:20)、「私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません」と、自らを主の前に低く、その立場を貫き通したのです。恵みにより救われた私たちにも、新たな使命、立場が与えられています。主の道を備えたヨハネに倣う者として、今週も主の栄光のために用いられましょう。

<聖書のことば>
この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
マタイの福音書 3章3節


7月18日 わたしの愛する子 マタイの福音書 3章13-17節 牧師 小泉 崇

 主はヨルダン川において、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。神の御子なるお方が、なぜバプテスマを受けられたのでしょうか。公生涯に入られる際、罪人と同じ立場に立つことが神の御心にかなってふさわしいことであったと言えるのです。今朝はバプテスマについて学びます。
 第一に、信仰の証です。
 バプテスマ(浸礼)は救われるために受けるものではありません。主の福音を信じて救われた者が、信仰の証しとして受けるものです。聖書に見るバプテスマの形式は、主もお受けになられた全浸礼です。その意味するところは、主の十字架の死と復活です。バプテスマを通して、自らが主とともに死に、また主とともによみがえったことを表明することができます。
 第二に、教会に加えられるのです。
 バプテスマを受けた結果、主のお体である教会の一員として加えられます。教会にしっかりと結ばれ、つながっていく時、そこに豊かな実、健やかな成長を期待することができるのです。
 第三に、従順の一歩です。
 主がバプテスマを受けられて後、水から上がられると、天が開け、聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」との声が聞こえました。主が模範を示し、お命じになられているバプテスマを通して、主への従順の一歩を踏み出しましょう。私たちもまた、主の「愛する子」として生きる者です。今週も主とともに歩み出しましょう。

<聖書のことば>
「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。 わたしはこれを喜ぶ。」
マタイの福音書 3章17節


7月25日 誘惑の中で マタイの福音書 4章1-11節 牧師 小泉 崇

 ヨハネからバプテスマを受けられたイエス様は、御霊に導かれて荒野に行き、40日40夜の断食を経験されました。空腹と疲れを覚えているところに、サタンが試みるために近づいて来たのです。イエス様が大いなる働きを開始しようと立ち上られた時、真っ先にやって来たのはサタンでありました。
 第一に、3つの誘惑です。
 サタンによる最初の誘惑は、石をパンに変えてみなさいというものでした。自らの空腹を満たすためにメシアの力を示すようにという誘惑です。次は、みことばを引用しつつ、神殿の屋根から下に身を投げなさいというものでした。人々を驚かせるようなみわざをもって、注目を受けるようにとの誘惑です。最後は、世の栄華を見せ、サタンの前にひれ伏して拝むならそれを与えるというものでした。世の富、権力をもってすべてを支配するようにとの誘惑です。同じサタンが私たちにも近づき、様々な誘惑を仕掛けてきます。しっかりと目を覚まして備える必要があるのです。
 第二に、御霊に導かれる歩みです。
 主の道を御霊に導かれて歩む時、しばしば荒野を通ります。しかし神はいかなる試みの中にあっても支え守り、導いて下さるのです。サタンの試みに勝利した主に目を留めましょう。
 第三に、みことばによる勝利です。
 主はご自身の力によってではなく、みことばにより勝利されました。私たちが見習うべき模範ではないでしょうか。今週も私たちは、礼拝と日々のみことばの糧を心に蓄え歩き始めましょう。

<聖書のことば>
「すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて 来てイエスに仕えた。」
マタイの福音書 4章11節