6月6日 新しくされた人生 ルカの福音書 19章1-10節 牧師 小泉 崇
今朝は、取税人ザアカイと主との出会い-有名な箇所からです。
第一に、失われていた罪人なのです。
ザアカイはエリコの町の取税人であり、しかもその「かしら」でありました。「金持ち」である一方、人々からは「罪人」と評される人物であったようです。彼は富を手にしていても、真の豊かさや満足を得ることはできないままでした。ここに、彼が神の前に失われた者であり、救われなければならなかった理由を見ることができます。
第二に、主は「捜して救うために」来られたのです。
エリコの町に来られた主は、ザアカイをご存知でした。イエスを一目見ようと、木に登っていた彼の名を呼んで、声をおかけになるのです。ひしめく群衆の中で彼が目立っていたからではなく、主は彼を「捜して救うために」来られたからです。主は、今も私に愛をもって呼びかけて招いて下さっています。
第三に、主の救いによって人は新しく生まれ変わるのです。
「ザアカイ」との招きに対して彼は急いで木から降り、喜んで主を家に迎え入れ、もてなしたのです。この交わりの結果、ザアカイは見事に生まれ変わりました。主と出会い、罪を悔い改め、心からの信頼をもって主をお迎えする時に、人は新しく生まれ変わります。主がその心にお住まい下さるからです。今週も主を見上げ歩み始めましょう。
<聖書のことば>
「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」
ルカの福音書 19章6節
6月13日 イエス・キリストの系図 マタイの福音書 1章1 - 17節 牧師 小泉 崇
本日よりマタイの福音書を読み始めます。新約聖書の四つの福音書にはイエス・キリストの生涯が記されています。今朝は冒頭、主の系図からです。
第一に、約束の成就です。
この系図には、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」であると記されていることから、私たちの主は、アブラハムの子であり、またダビデの子であることが明らかです。主イエス・キリストこそ神の民イスラエルが長く待ち望んでいたメシアその人であると言っているのです。神は決してお忘れにならず、約束を必ず守られるお方であることを覚えましょう。
第二に、すべての人の主です。
この系図には、女性たちの名が記されています。また異邦人の名があり、隠しておきたい様々な罪を思い出させる名が記されているのです。私たちの主の系図は、人間の罪の汚れや恥、欲望をも明らかに示す系図なのです。罪なき神の御子は、すべての人の救いのために罪の世に来て下さいました。
第三に、神によって生まれたのです。
この系図は、アブラハムからはじまり、ダビデを通してキリストへと至っていますが、それで終わりではありません。感謝すべきことに、罪からの救いを決定づける十字架の死と復活により、主を信じ受け入れる者は誰でも新しく生まれ、神の民となる特権を与えられているのです。(ヨハネ1:12)
今週も主の救いの約束を見上げつつ心新たに歩み始めましょう。
<聖書のことば>
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」
マタイの福音書 1章1節
6月20日 ヨセフの信仰 マタイの福音書 1章18 - 25節 牧師 小泉 崇
イエス・キリストの系図に続いて今朝は、キリストの誕生から学びましょう。
第一に、ヨセフの苦悩です。
御使いガブリエルによってマリアに告げられた救い主誕生の知らせを、婚約者のヨセフも知ることとなりました。彼は彼女が身ごもっている現実を知って、ひどく苦しみ悩んだに違いありません。彼には二つの選択肢がありました。一つは、法廷に訴え出ることです。当然マリアは罪に定められます。もう一つは、離婚状を渡して内密に去らせることです。ヨセフは後者を選択しようと思っていたと聖書は語ります。何れにせよ、苦悩の中での選択だったのです。
第二に、ヨセフの信仰です。
ほどなく主の使いがヨセフのもとに送られ、そして知らされるのです。恐れることなくマリアを妻として迎えるように。その胎に宿る子は聖霊によると。その子はイエスと名付けられ、民を罪から救う救い主であると。ヨセフの驚きはどれほどのものであったことでしょうか。しかし、彼は主を信じました。主にお従いして決断の一歩を踏み出すことができたのです。ここに、救い主の父として選ばれたヨセフの信仰を見ることができます。
第三に、すべて神の計画通りに成されるのです。
ヨセフは誕生した「その子の名をイエスとつけた」と記されています。神の御子であるお方が世に来られ、その生涯を通して、「神が私たちとともにおられる」ことを証して下さったのです。同じ主が、今私たちとともにおられます。今週もすべてを最善にお導き下さる主の約束を信じて見上げつつ歩みましょう。
<聖書のことば>
「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。 そして、その子の名をイエスとつけた。」
マタイの福音書 1章24- 25節
6月27日 星に導かれて マタイの福音書 2章1 - 12節 牧師 小泉 崇
マタイの福音書2章に入ります。今朝は救い主の星に導かれ、礼拝をおささげするために旅した東方の博士たちの信仰から見ていきます
第一に、神は異国に住む博士たちを導かれたのです。
博士たちは、東方で見た星(バビロニア周辺)によって救い主の誕生を知り、エルサレムを目指しました。神は遠い異国の地に住む彼らを招き、導かれたのです。この旅には多くの犠牲が伴ったでしょうが、彼らは礼拝をおささげするために、救い主を求めて旅立ったのです。
第二に、神は星によって博士たちを導かれたのです。
ベツレヘムに向かう博士たちを、さらに星が導きました。その星は、彼らの先を進み、幼子がいる家の上にとどまったのです。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(10)と記されています。彼らの目に入って来たのは幼子のイエス様でしたが、御前にひれ伏し、自分たちの持てる最高をもって礼拝をおささげしたのです。神は私たちの心をご存知です。自らの命を与えるほどまでに愛して下さった主の愛にお応えしつつ、最高をもっておささげしましょう。
第三に、博士たちは人の声ではなく、神の声に従ったのです。
救い主の星を見、導かれ、礼拝をおささげした博士たちは、「見つけたら知らせるように」との王の声には従わず、「戻るな」との神の声に従ったのです。来た道を戻るのではなく、別の道、神のお言葉に従って、神と共に歩む喜びの道を歩き始めるのです。私たちも博士たちと同じ道を歩み始めましょう。
<聖書のことば>
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
マタイの福音書 2章10-11節