2月7日 神が与えて下さった人生を ペテロの手紙第二 1章8-11節 次期牧師 小泉 崇
ペテロの手紙を読み進めています。今朝も先週に引き続き、神が与えて下さった人生を豊かに歩むために心に留めておきたい事柄から学びます。
第一に、主のために役立つ者として、豊かな実を結ばせることです。
先週は私たちが身に着けるべき信仰から愛へと至る恵みのリスト(5-7)から学びました。ペテロは今朝の箇所で「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら」(8)、さらに主を知る者、主の素晴らしさを味わい知る者へと導かれて行くというのです。当然のことですが、主を豊かに知れば知るほど、主のために役立つ者となり、その結ぶ実も豊かになります。「神のご性質にあずかる者」、主に似る者へと変えられ続けていただけるように、日々忍耐強く祈り求めつつ、実を結ばせていただきましょう。
第二に、主の恵みを忘れ、後退するような歩みへの警告です。
「これらを備えていない人は盲目です」(9)、また「近視眼的になっている」とあります。つまり目の前にある現実の事しか見ることができません。霊的に盲目な状態にありますから、正しい判断ができず、過去の恵み(罪がきよめられたこと)を忘れ、将来への希望も持つことができないのです。ペテロは、かつての罪の生活に後退し、常に不安定な状態に陥ってしまうことのないようにと警告を発してくれています。
第三に、主とともに着実に前進しつつ、いっそう励むことです。
神は、永遠のご計画のうちに私たちを選び、滅びから救いへと召し出して下さいました。召された者には、信仰から愛へと至る人生を求めつつ、「いっそう励む」ことが求められています。その恵みの行程を通して「召しと選び」を確かめつつ、永遠の天の御国を目指して歩むことができるのです。。
<聖書のことば>
「ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません」
ペテロの手紙第二 1章10節
2月14日 共に集まる祝福 へブル人への手紙10章19~25節 宣教牧師 山宮 利忠
コロナ禍の中で、共に集まることが出来ない状態だからこそ、共に集まる祝福を学ぶことは、相応しい事かもしれません。
1. 救われた聖徒は、共に集まる性質を持つものです。
聖徒は羊と言われています。羊は、群れを成して外敵から守られ、行動を共にします。それは、羊の性質だからです。主は良い牧者として羊である私達たちを緑の牧場へ安全に導かれます。群れから離れる羊は、危険なのです
2. 主は、共に集まるように命じています。
初代教会の聖徒は迫害の中でも共に集まり、集まる事を止めませんでした。共に集まる事への妨害が沢山あるので、互いに励まし合って集まることが必要です。何故ならばその日が近いからです。主がおいでになる日、裁きの日が近いからです。その日には、忠実な者には、報いが与えられ、不忠実な者は、悲しまねばなりません。
3. 共に集まるところに特別な祝福があります。
この祝福は、個人的なものとは異なる、群れに与えられる祝福です。主は共に集まるところに驚くべき恵みを注いでくださいます。その驚きを経験する時、群れとしての一致と、さらなる主に従うことの尊さを知ることが出来ます。共に苦しむものは、共に喜ぶことが出来るのです。大切なことは、共に集まるということです。
<聖書のことば>
「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」
へブル人への手紙 10章25節
2月21日 思い起こさせ、奮い立たせ ペテロの手紙第二 1章12~15節 次期牧師 小泉 崇
この手紙の受取人は同じ主を信じる者であり、すでに真理を知り、堅く立つ者たちでした。今朝の箇所から教えられることは何でしょうか。
第一に、思い起こすことです。
「あなたがたがこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っているとはいえ、私はあなたがたに、それをいつも思い起こさせるつもりです」(12)とペテロは語ります。一度理解したつもりでも、時の経過とともに忘れてしまうことが私たちには有り勝ちです。「思い起こす」ことは彼らにとっても私たちにとっても必要で、繰り返し自分の中に取り入れることが大切なのです。
第二に、最後まで成し遂げることです。
自らの死が近いことを感じていたペテロは、復活の主からいただいたおことば(ヨハネ21:18-19)を心に留めて歩み続けていたに違いありません。しかし、その日が近づいているのを知って恐れるのではなく、最後まで自らの果たすべき使命を成し遂げるために、聖徒たちに「思い起こさせ」「奮い立たせ」ようと励んでいるのです。
第三に、聖書の教える死生観です。
死は「幕屋を脱ぎ捨てる」(14)ことであるとペテロは語ります。幕屋とは仮住まいのことです。つまり彼は、地上での一時的なテント生活を間もなく終え、永遠の都に入るという確かな約束を見つめていたのです。死は終わりではありません。死の陰の谷を歩むような聖徒にとって、今を生きる私たちにとって、天の御国に勝る慰め、価値は他にはありません。
<聖書のことば>
「それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。」
ペテロの手紙第二 1章13節
2月28日 確かな証言 ペテロの手紙第二 1章16~18節 次期牧師 小泉 崇
ペテロはその生涯を通して、主の福音、真理を伝え、それを「思い起こさせ」「奮い立たせる」ために人々を励まし続けました。今朝は、その教えが「巧みな作り話」ではなく、確かな証言であることを学びます。
第一に、自分の目で見たのです。
十字架におかかりになる前、キリストは高い山に登り、地上の歩みにおいて隠されていた本来の御姿~栄光に輝く御姿~を現されました。この変貌山での出来事を主の弟子として自分の目で見たペテロは、ヤコブ、ヨハネと共にキリストの「威光の目撃者」なのです。
第二に、自分の耳で聞いたのです。
キリストの栄光に輝く御姿を見ただけではありません。天からの声「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」との声を聞いたのです。聖書の神は語られる神です。昔から実に多くの方法で語りかけられましたが、「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(ヘブル1:1-2)私たちは、主のみことばである聖書を通して、教会における説教を通して神の語りかけを聞くことができるのです。
第三に、聖なる山で主とともにいたのです。
ペテロは日々主とともに歩み、聖なる山でもその場におりました。後の日に、使徒たちは主ご自身が語り、成し遂げて下さった福音を伝えたのです。その確かさは、栄光に輝く主の御姿を目撃した目と、天からの神の声を聞いた耳により、その場に共にいた使徒たちによって証されています。今私たちも同じ信仰者として、みことばを通して主を信じ、主の栄光を見、主の語りかけを聞き、主とともに歩ませていただきましょう。
<聖書のことば>
「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。」
ペテロの手紙第二 1章16節