11月1日 互いに謙遜を身に着ける ペテロの手紙第一 5章1~6節 宣教牧師 山宮 利忠
ここには、長老としての牧師と経験の少ない若者への勧めが示されています。牧師へは、信徒の模範となる事、聖徒には、長老に従う事ですが、双方への大切な教えは謙遜です。教会に謙遜の霊が満ちる時、豊かな祝福が約束されます。何故教会に謙遜が重要なのでしょうか
1.謙遜は、神御自身が求めておられるからです。 イザヤ:57:15
神は高ぶりの後に何がやってくるかをご存知なのです。失敗の前には必ず高ぶりがあります。神は、高ぶりがいかに大きな罪であり、その結果がいかに恐ろしいものであるかをご存知なのです。ですから謙遜である事を求められます。
2.主イエス様は弟子に何よりも謙遜を教えられました。マタイ23:11
自分を低くするものは高くされるのです。己を低くすることは好ましくない事のように見られますが、やがて誉れがやってきます。イエス様は高ぶって当たり前の為政者である百人隊長の謙遜な姿勢に驚かれて恵みを施されました。又ご自身が弟子の足を洗われて僕になる模範を示されました。
3.主イエス様ご自身が最も偉大な謙遜なお方でした。 ピリピ2:6~
罪人の裁きをご自身が負って、身代わりに刑罰を受けて下さったのです。このおかたの弟子である私たちが、謙遜でなくて良いわけはありません。教会は、自分の罪が赦された事への感謝を常に持って、謙遜な仕え方をする者達の集まりです。謙遜の霊が教会に満ちているなら教会は大いに祝福されます。私たちは、独立して教会としての成人を迎えようとしています。その証が謙遜でありますように祈りましょう。
<聖書のことば>
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。」
ペテロの手紙第一 5章5節
11月8日 真実な創造者にゆだねて ペテロの手紙第一 4章12~19節 次期牧師 小泉 崇
Ⅰペテロ4章後半からです。今朝の箇所には、主の御名のために受ける苦しみ、試練の中にあるキリスト者への励ましと勧めが語られています。
第一に、いっそう喜ぶことです。(13)
「燃えさかる試練」との言葉には、当時のキリスト者が経験していた苦しみの大きさが表されています。ペテロはここで、試練を「何か思いがけないことが起こった」と「不審」に思うのではなく、むしろ、キリストの苦難にあずかるほど、「いっそう喜びなさい」と勧めるのです。すべてのことは神の御手のうちにあります。想定外ではなく、想定内のこととして受け止めつつ、主の苦しみの一部分にあずかれることを喜び、恵みとして数えましょう。その先には、さらなる大きな喜びが待っているのです。
第二に、主なる神をあがめることです。(16)
一方で、主の御名のために受ける苦しみではなく、自らの罪ゆえに受ける苦しみがあります。それは栄誉なことではありません。自らを省み、注意しましょう。神は正しい審判者です。キリスト者の受ける試練が正当なものならば、「神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」主は愛する者を、審きの火ではなく、試練を通して練りきよめ、ふさわしく整えて下さるのです。主の御名のゆえに神をあがめましょう。
第三に、自分のたましいをゆだねることです。(19)
神は主イエスを信じ従う者を確かな御手によりお守りくださいます。「真実な創造者」に自らのたましいをゆだねつつ歩みたいものです。新たな週、まっすぐに主を見上げつつ、神の栄光のために用いられますように。
<聖書のことば>
「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」
ペテロの手紙第一 4章19節
11月15日 堅く信仰に立って歩もう ペテロの手紙第一 5章7~11節 次期牧師 小泉 崇
ペテロの手紙第一5章に入ります。先々週私たちは、「互いに謙遜を身に着ける」ことを教えられました。今朝は7節以降の御言葉から学びます。
第一に、いっさいの思い煩いを神にゆだねることです。(7)
神は力強い御手をもって世を支配しておられ、そのご計画を必ず成し遂げられるお方です。今日においても神が創造された世界を見れば、罪の影響を受けつつも、確かに生きた神のみわざを見ることができます。しかし一方で私たちは、日々の営みの中で恐れや不安を抱き、心配は尽きず、何と思い煩いやすい者でしょうか。空の鳥を養い、野の花を装って下さる主の御手とそのご配慮を覚えつつ、思い煩いを御前にゆだねましょう。
第二に、身を慎み、目を覚ましていることです。(8)
それは、「敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」いるからです。悪魔(サタン)は「訴える者、中傷する者」として、神から引き離し暗闇の中へと引きずり込もうと働きかけてきます。私たちは自らの弱さを覚えつつ、しっかりと目を覚まして祈り続けなければなりません。
第三に、堅く信仰に立って対抗することです。(10)
最後に、働きかけてくる誘惑者に対して、私たちは対抗しなければなりません。そのためには「堅く信仰に立ち」、「共に励まし合う」ことが大切です。すでに主は罪と死に勝利され、私たちは主にあって「永遠の栄光の中に招き入れられた」者です。「堅く立って、動かされることなく」希望を抱いて主のわざに励みましょう。その労苦が報われる日が訪れるのです。
<聖書のことば>
「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」
ペテロの手紙第一 5章9節
11月22日 この恵みの中に立ち続けよう ペテロの手紙第一 5章12~14節 次期牧師 小泉 崇
約半年に渡って読み進めて来ましたペテロの手紙第一を読み終えます。使徒ペテロは、各地に散らされ寄留しているキリスト者たちに対して、励ましの手紙を書き送りました。今朝は、最後の挨拶から学びます。
第一に、神のまことの恵みです。
ペテロはこの手紙の中で度々神の恵みについて語ってきました。キリスト者の生涯は神の恵みを味わいつつ、恵みによって支えられて歩む生涯です。先週の箇所でも「あらゆる恵みに満ちた神」が、「回復させ、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださる」ことを学びました。十字架と復活のキリストにあって、私たちは永遠の栄光の中に招き入れられているのです。恵みに満ちた神の約束は、試練や苦しみの中でも変わることがありません。
第二に、この恵みの中に立ち続けることです。
神のまことの恵みの中に招き入れられた者は、この恵みの中にしっかりと立ち続けなければなりません。主の教会は、激しさを増す迫害や困難の中にあっても尚、この恵みの中にしっかりと立ち続けていたのです。私たちもまた、御言葉から示され教えられた一つひとつの事柄が、日々の信仰生活の中で生かされ、そこに豊かな実が結ばれていきま
すように。
第三に、主にある交わりの恵みです。
最後に、この手紙はパウロとともに伝道旅行をしたシルワノ(シラス)が筆記しました。マルコの名も記されています。主の教会の働きは、忠実な信頼できる者たちの働きによって支えられているのです。私たちもともに愛し仕える者として、互いに心からの挨拶をもって歩き始めましょう。
<聖書のことば>
「忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい。」
ペテロの手紙第一 5章12節
11月29日 キリスト(教会)にとどまりなさい ヨハネの福音書15章1~17節 宣教牧師 山宮 利忠
いよいよ教会組織の時が近づきました。これまでの学びの復習をしつつ、今後の充実した教会生活、信仰生活の為に心を備えたく思います。
1.ぶどうの幹、即ちキリストに留まる事が強調されています。(4)
ブドウの幹にしっかり留まるべき事が、この短い箇所に何度も繰り返して強調されています。キリストに留まるとは、キリストの体なる教会に留まる事にほかならず、それはまたキリストの教えに留まる事でもあります。(7)
2.キリストに留まる事は、実を結ぶことです。(5)
ぶどうの木に期待されていることは、豊かな実を結ぶことです。実を結ぶとは役立つことです。植えた主人のために豊かな収穫をしてもらうためには、しっかりと根を張り、時が来てブドウが実を結べば、主人の喜びとなります。それは、ブドウの実が主人に役立つからです。 実は、次の世代への種となり、さらに多くの実を結ぶことになるのです。
3.キリストに留まらなければ、実を結ぶことはありません。(6)
実を結ばないだけでなく、枯れて捨てられてしまいます。即ち、証しが消えてしまいます。キリストを信じて救われ清められていても、教会に留まらなければ成長もなく、喜びもないみじめな生活が待っていることを覚えましょう。主は、留まって私たちが喜びに満たされることを願っておいでです。
<聖書のことば>
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は、多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
ヨハネの福音書15章5節