2020年9月


9月6日 自由な者として ペテロの手紙第一 2章13~17節 次期牧師 小泉 崇

 神の民としてこの世に遣わされている私たちが、世における様々な関わりの中にあっていかに歩むかを先週から学び始めています。神との交わりを妨げるような誘惑を離れ、むしろ神に近づき、理解を得られないような中でも最善の主の御手に信頼し希望を置いて歩むということでした。今朝はさらに続きからです。
 第一に、人が立てた制度に従うことです。
 確かに当時も今もキリスト者たちは、恵みのゆえに信仰によって救われた者たちです。この世のものではなく神のもの、天に国籍を持つ民とされました。それではこの世の制度に従わなくても良いかというとそうではありません。旅人であり一時的な寄留者ではありますが、人が立てた制度に従い、国や社会における責任を果たすことは神の御心であり、正しいことなのです。
 第二に、主のゆえに従うことです。
この世は神から離れ罪に満ちた世界です。神の民として歩むところには様々な誤解や偏見があります。当時は迫害の中で決して住みやすい社会ではありませんでしたが、そこで「主のゆえに従う」ことが勧められています。その結果、主の証しが立てられ「愚かな者たちの無知な発言を封じる」ことになるからです。
 第三に、自由な者として従うことです。
私たちは、罪の束縛から解放され真の自由を得た者であると同時に、キリストにより贖われた神のしもべです。世の制度に従うことが原則ですが、例外があります。それは、神の御心に反することを強要される場合です。それには従うことはできませんし、そうすべきではありません。ペテロ自身が告白しているように「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)。今週も自由を得た神のしもべとして主の御手に導かれ遣わされてまいりましょう。

聖書のことば
「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」
ペテロの手紙第一 2章16節


9月13日 たましいの牧者 ペテロの手紙第一 2章18~25節 次期牧師 小泉 崇

 神の民としてこの世の様々な関わりの中でいかに歩むかが勧められています。先週私たちは、「人が立てたすべての制度に、主のゆえに」従うこと、「自由な者として」「神のしもべとして」従うことを教えられました。
 第一に、敬意を込めて従うことです。
 「しもべたちよ」(18)と呼びかけられています。しもべとは奴隷を意味しており、当時のローマ帝国には6千万人の奴隷がいたと言われています。彼らは、強制されて労働する人々ばかりではなく、家に仕える者、教師や医師等の知的労働など多岐に渡り従事していたのです。ペテロはここで「敬意を込めて主人に従いなさい」と、心から従うことを勧めます。さらに「意地悪な主人にも」従うように、また「不当な苦しみ」を受けても耐え忍ぶようにと教えるのです。私たちは黙っていられるでしょうか。心から従うことができるでしょうか。
 第二に、キリストの模範です。
 人が自らの罪ゆえに罰せられ、苦しみを受けることは当然のことです。しかし、不当な苦しみを受けながらも耐え忍ぶ、それは「神に喜ばれること」だとペテロは語ります。彼の目には主のお姿が見えていたに違いありません。主の十字架こそ最大の「不当な苦しみ」ではないでしょうか。世でただひとり罪の全くない主ご自身が、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず」耐え忍ばれました。このお方こそ、私の主であり倣うべきお方です。
 第三に、たましいの牧者のもとにあるのです。
 この苦しみを受けられた主の「打ち傷のゆえに」私たちは癒され、救われました。それは「罪を離れ、義のために生きるため」です。主は世の荒波の中でも私の牧者である、それは揺るぎません。恐れることなく主とともに歩みましょう。

<聖書のことば>
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰った。」
ペテロの手紙第一2章25節


9月20日 めぐみをともに受け継ぐ者 ペテロの手紙第一 3章1~7節 次期牧師 小泉 崇

 この世での様々な苦しみの中にあるキリスト者に対して、いかに歩むかが勧められています。先週は、主人としもべの関係を主の足跡から学びましたが、今朝は夫婦関係についての勧めからです。
 第一に、妻への勧めです。
「妻たちよ」と呼びかけられ「自分の夫に従いなさい」と勧められています。先週の箇所で、しもべが意地悪な主人にも従うように、妻もまた同じように、夫に従うようにと教えられているのです。「みことばに従わない夫であっても」例外ではなく、むしろ「無言のふるまいによって」夫が神を信じる者になることが期待されています。「神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。」昔も今も家族伝道は、言葉ではなく実際の行動によるところが大きいと言えます。
 第二に、内面の美しさです。
次に、外面の美しさよりも内面の美しさに関心を払うことが勧められています。「髪を編んだり金の飾りを付けたり」するような外面的なものではなく、「柔和で穏やかな霊という~」内面的な飾りこそ、神の前に価値あるものなのです。その模範として旧約聖書からサラが挙げられています。信仰による内なる美を持っていた彼女のように、何事をも恐れず善を行うなら「サラの子」であるというのです。
 第三に、夫への勧めです。
「夫たちよ」と呼びかけられ、妻を「尊敬しなさい」と勧められています。神により結び合わされた二人は一体です。夫は妻が「自分よりも弱い器」であることを理解し、「尊敬」をもってともに歩むべきです。神の御前における良きパートナーとして「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」とされているのですから。

<聖書のことば>
「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。
ペテロの手紙第一3章7節


9月27日 幸せな日々を見るために ペテロの手紙第一 3章8~12節 次期牧師 小泉 崇

 この世に生きるキリスト者に対して、先週は夫婦の関わりについて「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」として互いに愛し、尊敬し、従うことを学びました。それはキリストのおからだである教会においても同じです。
 第一に、一つ思いとなることです。
 教会において、そこに集まる兄姉は皆それぞれに違いがあります。性格や賜物、意見や考え方も異なります。その中にあって、教会は同じ主を見上げ、主が愛し赦してくださったように愛し合い、互いに受け入れ合い、一つ思いをもって築き上げられていくことができるのです。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:32)
 第二に、祝福を受け継ぐ者です。
 世の中において、キリスト者は「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい」(9) と勧められています。悪に対して、怒りの感情に任せて事を行わないというだけではなく、さらに祝福を与えるという積極的な生き方が教えられています。それは、私たちが他の人に「祝福を受け継ぐために召された」者であるからです。 
 第三に、幸せな日々を見るためです。
 ペテロは詩篇を引用しつつ、幸せな日々を歩むための秘訣について語ります。それは、「悪を離れて善を行い、平和を求め」ることです。(11)キリスト者は、主の限りない恵みのゆえに救われ、主とともに歩む者とされました。良い行いをするために」造られた者ですから、主と主のみことばを信頼しつつ平和が保たれていくならば、最善なるご計画、幸せな日々を歩むことができるのです。

<聖書のことば> 
「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」 
ペテロの手紙第一3章9節