2020年7月


7月5日 福音の輝き ペテロの手紙第一 1章10~12節 次期牧師 小泉 崇

 先週私たちは、様々な試練の中でも、その救いのゆえに、栄えに満ちた喜びに生かされていることを確認しました。
 第一に、救いと希望のメッセージです。
 預言者とは、神のおことばを預かり、人々に伝える者です。今、私たちに与えられている救いの恵みは、旧約の時代からそれぞれの時代において、預言者たちにより預言されてきた大切なテーマであると言えます。彼らは神の壮大な救いのご計画について十分に理解することはできませんでしたが、人々に励ましと希望のメッセージを伝えてきたのです。神は罪に対して警告を発せられ、さばかれるお方ですが、同時に救いと励まし、希望を与えて下さるお方です。
 第二に、熱心に尋ね求め、細かく調べたのです。
 旧約時代の預言者たちは、キリスト(救い主)として来られる方はどなたなのか、来られる時はいつなのか、キリストの御霊に導かれ「キリストの苦難とそれに続く栄光」を指し示すと同時に、「熱心に尋ね求め、細かく調べた」(10)のです。今私たちは、そのお方が約二千年前にこの世に来られた主イエス・キリストであると証しすることができます。
 第三に、福音の輝きです。
 旧約時代の預言者たちが知り得なかった救い主を私たちは知る者となりました。「キリストの苦難」とは、十字架における苦しみを頂点にした受難であり、「それに続く栄光」とは、死して後三日目の復活、天に上げられた栄光です。それは御使いたちがはっきり見たいと願うほどに素晴らしい恵みなのです。主の十字架と復活の福音には喜びと平安、そして希望があります。今週も私たちは、与えられている恵みの福音、その輝きに目を留めて、感謝しつつ歩み始めたいものです。

聖書のことば
「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。」
ペテロの手紙第一 1章11節


7月12日 主を待ち望む ペテロの手紙第一 1章13節 次期牧師 小泉 崇

 聖書が伝える最も大切な主の十字架と復活の福音は、遥か昔の預言者たちによって預言され、キリストの誕生により成就し、その後弟子たちによって伝え広められて来たことを先回学びました。今朝は、恵みにより救われた者の生き方について学びます。
 第一に、心を引き締めることです。
 直訳すると「心の腰の帯を」締めるということです。与えられている日々をただ漫然と世の流れに流されて歩むものではなく、新しいいのちの道を歩む者としての意識をしっかりと持ち、主に祈りお委ねしつつ、目の前の様々な選択、判断を成していきましょう。
 第二に、身を慎むことです。
 自制心を働かせ、バランスを保って歩むということです。私たちの周囲には様々な誘惑が満ちています。かつてエデンの園においてアダムとエバは、「食べてはならない」と禁じられていた木の実を、誘惑に負け、食べて罪を犯してしまったのです。目を覚まして、しっかりと主の恵みのうちにとどまり、主のお体である教会につながっていきましょう。
 第三に、主を待ち望むことです。
 主を信じて歩む者は、主に希望を置いて歩み続けます。それは、主の現れの時に豊かな恵みがもたらされることを知っているからです。その時には、主の栄光をほめたたえる喜びが満ち満ちるのです。今は「忍耐」が必要ですが、ただ我慢するだけの忍耐ではなく、栄光の時を期待しつつ待ち望む「忍耐」なのです。神の時は私たちには明らかにされていません。しかし、主が現れる時は必ず訪れる、これは変わることのない確かな約束です。

聖書のことば
「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
ペテロの手紙第一1章13節


7月19日 聖なる者として ペテロの手紙第一 11章14~16節 次期牧師 小泉 崇

 ペテロの手紙を通して主の恵みによって救われた者たちのこの世における生き方について学んでいます。今朝は先週の続きを見てまいりましょう。
 第一に、従順な子どもです。
 主を信じる前の彼らは、神に背を向けて自らの道を歩む者でした。私たちもまた、以前は同じように生きていたのではないでしょうか。しかし、救われて神の子どもとされてからは違います。かつての自己中心的な生活を捨てて、全き信頼をもって主の御手に委ね、そのおことばに判断基準を置き、「従順な子ども」として歩む生き方へと招き入れられているのです。
 第二に、聖なるお方です。
 ペテロは16節で旧約聖書から引用しています。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(レビ11:45)「聖」とは、この世のものから完全に区別された存在であることを意味しています。神は聖なるお方ですから、罪ある人間がそのままで神に近づくことはできないのです。
 第三に、聖なる者です。
 聖なる神はその御手を伸ばし、罪と汚れに満ちた世に来られ「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」(エペソ2:5)私たちが救われたのは神の恵みによります。今、恐れることなく主に近づき、日々の歩みをともに歩ませていただいているのです。この世から取り分けられた神の聖い器として、主のみことばをしっかりと見つめつつ、今週も「従順な子ども」としてふさわしく、歩みはじめましょう。

聖書のことば
「従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。」
ペテロの手紙第一 1章14~15節


7月26日 贖われた者として ペテロの手紙第一 11章17~21節 次期牧師 小泉 崇

 先週私たちは、神の御前に聖なる者として生きることについて学びました。今朝は、主の贖いのみわざにより生きる者とされた恵みから学びます。
 第一に、恐れつつ日々歩むことです。
 主の恵みによって救われた者の歩みに、「恐れ」が必要であるとペテロは語ります。それは神に対する恐れです。なぜなら神は、「人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方」だからです。神にはえこひいきがありません。この地上での行いに対して正しく評価してくださるお方ですから、正しい審判者である神を畏れ敬いつつ歩みましょう。
 第二に、贖われた者です。
 「贖い」には、買い戻す、身代金を払って身請けするという意味があります。罪の世にあって、神の愛、生きる意味や価値を知らず「むなしい」人生を送る人々を贖い出すことができるのは、金や銀ではなく「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血に」よる以外にはありません。旧約の時代には、罪の贖いのために動物のいけにえが繰り返し捧げられて来ましたが、今や「贖いの代価」としてご自身のいのちをおささげくださった主によって、すべての罪は赦され、永遠のいのちを得、贖い出されたと言うことができます。
 第三に、贖われた者として歩むことです。
 神の救いのみわざは、十字架の死で終わりではありません。「キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神」は、信じる私たちをもよみがえらせてくださるのです。その御力によって試練や苦しみの中でも支えてくださるのです。今週も大いなるお方を見上げ、贖われた者として、「私たちの信仰と希望は神にかかっている」ことを告白しつつ、御前に歩み始めたいものです。

聖書のことば
「あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。」
ペテロの手紙第一 1章21節