2020年4月


4月5日(集会休止) キリストの体を建て上げる為エペソ人への手紙4章11~16節 宣教牧師 山宮利忠

 主キリストによって立てられた牧師と、キリストの体である教会の務めについて、以下三つのことが重要なこととして教えられています。
1.教会の一致をつくり上げる努力をすることです。(13)
 心を一つにする為には、なにによって可能かと言うと、キリストに在ってなのです。これ以外に一致を作り出すことは出来ません。罪の性質は混乱だからです。私は、口ではない耳ではないと言っていたら一致は生まれません。一致はキリストの愛による謙遜をもって、自分の立ち位置を自覚し、他を尊ぶ事によって生まれます。
2.各自が成長して大人になる事です。(15、16)
 キリストの僕として、成長すること、成長を目指すことが教えられています。成長の目標は、キリストに似ることで、ガラテヤ書には、キリストの形と教えられています。知識を心に落とし、心から手足に落とすことです。信じるだけで救われた私達は、行いに於いて主に似る者になる事が求められています。
3.キリストの体なる教会を建て上げることです。(12)
 これは牧師の務めですが、教会全体の務めでもあります。羊飼いの導きに従わない羊がどうなるかは、明らかであり、監督の命に従わない選手がチームに貢献することはありません。教会につながる全ての者が、主のお体の健康と成長に協力することが、主の御心です。自分の教会を喜び、自分の教会を良い意味で誇れる聖徒は幸いです。

聖書のことば
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる為であり・・・」
エペソ人への手紙4章12節


4月12日(ライブ配信) 生きている方を・・ ルカの福音書24章1~9節 宣教牧師 山宮利忠

 主のご降誕の記録は、全福音書に記されていませんが、主の復活は、全福音書に記録されています。それは復活がいかに重要であるかを示すものです。
1.キリストの復活は、イエスが救い主である事を証明するものです。
 主は、ご自身が死んで後、甦ることを予告なさいました。「わたしは、甦りであり、命である」と言われた方は、信じる者に生きる事を約束なさいました。主は、死に打ち勝つ事によって、ご自身が、人の死も命も支配できる真の救い主であることを証明なさったのです。
2.キリストの復活は、人に死後の命がある事を証明するものです。
 死んでも生きるとのお言葉は、人の生涯が肉体の死で終わらない事を、身をもって証明されたものです。それは、信じる者に生きる希望を与えます。死後にパラダイスがある事を主は、十字架の上で回心した罪人に約束なさいました。私達にも同様に約束して
くださいます。
3.キリストの復活は、今もキリストは生きている事を証明するものです。
 主が生きていることこそ、信じるものを救い、助け、導くことがお出来になる事の資格です。生ける主が信じる者と共にいることは、何と心強い事でしょうか。希望と安らぎが与えられ、何事にも大胆に立ち向かうことが出来ます。復活の記録こそ最も重要な聖書の記録であり、事実なのです。主は甦られ、生きておられます。

聖書のことば
「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」
カの福音書24章5節


4月19日(ライブ配信) 行って、伝えなさい ヨハネの福音書20章11~18節 次期牧師 小泉 崇

 主の復活後最初にお会いしたのはマグダラのマリヤでした。
1.マリヤは、大きな苦しみから解放された者でした。(マルコ16:19)
 キリストを信じた事により、7つの悪霊の支配から解放されたマリヤの経験は、その後の生涯を一変させます。キリストのみ傍近く仕える者になり、他の婦人達と共に婦人のできる奉仕をもって、主の働きを助けました。何時も主の傍近くにいたいと願い、墓でも、悲しみの涙をもって主を思うのです。多く赦された者は、多く愛するということが判ります。
2.マリヤは、最初に復活の主にお会いする恵みにあずかります。
 墓にとどまって泣いているマリヤに、「なぜ泣いているのか」と親しく声をかけられた主は、復活後最初にご自身をマリヤに現されたことになります。他の弟子達に先立ってマリヤは、甦られ生きておられる主にお会いし、言葉に表すことの出来ない大きな喜びと、素晴らしい恵みのあずかることが出来ました。み傍近く仕える者に、主はご自身をお示しになります。
3.マリヤは、最初の復活の証人となります。
 大きな苦しみを抱えていたマリヤが、主がよみがえられたことと、これからの主の計画を伝える証人になったのです。私達は、皆キリストの復活の証人です。使徒たちだけでなく、キリストを救い主と信じた者は、全て主は生きておられる、主は私達の罪をお赦し下さった。主は、私達を天の御国に入れてくださるという証人なのです。 この幸いな証言を力強くする為に、常に主のみ傍に、そのお体なる教会に居ようではありませんか。マグダラのマリヤのように。

聖書のことば
「マグダラのマリヤは、行って、私は主にお目にかかりました。と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子達に告げた。」
ヨハネ福音書20章18節


4月26日(ライブ配信) 信じていのちを得るために ヨハネの福音書20章19~31節 次期牧師 小泉 崇

 先週私たちは、復活の主がマグダラのマリヤにご自身をあらわされた箇所から学びました。今朝も続けてヨハネの福音書20章から学びます。
第一に、弟子たちの信仰です。
 主の復活の知らせを聞いた弟子たちでしたが、彼らは信じることができず、恐れのために家の中に閉じこもっていました。しかしひとたび復活の主にお会いすると「主を見て喜び」(20)、「私たちは主を見た」(25)と伝えはじめます。主は恵みとあわれみに満ちたお方です。閉じられた戸の中に自ら歩み寄り立たせ、ご自身の働きのために用いてくださるのです。
第二に、トマスの信仰です。
 主が弟子たちにあらわれた時、トマスはその集まりの中にひとりだけいませんでした。彼は他の弟子たちの証言を聞いても信じようとはせず「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」(25)と応答するのです。トマスは私たちの代表ではないでしょうか。あわれみ深い主は彼のために再びあらわれてくださり、釘によって打たれた手と槍によって刺された脇腹を彼に示されて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と語りかけます。そしてトマスは「私の主、私の神よ。」と応答するのです。この応答が日々私たちの告白となりますように。
第三に、信じる者に与えられるいのちの約束です。
 さらに主はトマスに、「見ないで信じる人たちは幸いです」とお語りになります。目には見えませんが私たちは生ける主を神の御言葉である聖書を通して信じる者です。イエスが神の子、救い主であることを信じる者には永遠のいのちが与えられます。今週も主にある愛と平安に包まれて主を見上げ歩みたいものです。

<聖書のことば>
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」
ヨハネの福音書20章31節