2019年10月

10月6日 喜びをもって主に仕えよ  詩篇100篇 宣教牧師 山宮利忠

 神への礼拝をテーマにした感謝の賛歌です。
1.礼拝者は喜びをもって主に賛美を捧げます。(2)
 あちこちから湧き上がるよろこびの叫びで、それが神への感謝の歌となって、喜び歌いながら礼拝所へ向かう群衆の姿が、目に浮かびます。感謝と喜びをもって主に礼拝を捧げる姿こそ救われた者の礼拝にふさわしいものです。礼拝の意味は、仕えるという意味だと分かれば、自ずとほめたたえる賛美が口から溢れ出るでしょう。悲しみをもって、主を賛美することは出来ません。悲しみをも喜びに代えてくださる主に賛美をささげます。
2.喜びをもって礼拝する理由は、何でしょうか。(3)
 私達の神は、私をおつくりになった造り主であり、私達の主なのですから。又、羊飼いのごとく、常に目を注いで、命を懸けて守り導いて下さるお方だからです。そこには安心があり、平安があります。穏やかな安心感は、呟きや不満からは程遠いものではありませんか。喜んで主に従うことこそ、イエスを主と信じる者の姿です
3.感謝をもって礼拝することは、礼拝者に相応しいものです。(4~5)
 その理由は主の恵みと慈しみ、偽りのない私達への主の真実です。私達の礼拝が、偉大にして愛に満ちたお方への礼拝であるという事を、周囲の人々は感じるでしょうか。喜びに満ちた礼拝者でありますように。

聖書のことば
『 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。』
詩篇100篇1~2節


10月13日 私は全き道に心を留めます  詩篇101篇 宣教牧師 山宮利忠

 ダビデの王としての心構えを歌ったもので、ダビデがどのような姿勢で国を治めようとしていたかが判ります。
1、まず自分の家庭から正すこと。(1~3)
 神の教えに従う道、全き道に歩む覚悟である証として、まず自分の家庭から、正しい心で家を治めることを実行し、卑しい事や曲った事を遠ざけ、まといつく罪があってもそれをかなぐりすてて、まず家庭を主の教えに相応しく守り、正しくする決意が歌われます。
2、王として立てられた国を正すこと。(4~8)
 次に、王として立てられた国を正し、神によって建てられた国の中に、人を陰でそしる者や高ぶる者、偽って人を欺く者を速やかに処罰することを歌います。国を亡ぼすものは、陰でのそしり、高ぶりや偽りである事が判ります。
3、王の王なるメシヤが来られる時こそ正しい清算の時。(2)
 いつ、主は来てくださいますか・・・と言う言葉は、今の私達にはメシヤなるキリストの再臨と受け止めても間違いではありません。花婿なるキリストをお迎えする教会が、身を清め、正しくし、目を覚まして花婿なる主をお迎えできるように、しかもいつ来られても良いように油を整えている必要があります。教会が正しく整えられますように。再臨の主が何時お出でになっても私達をお喜びくださるように備えましょう。

聖書のことば
『 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。』
詩篇101篇2節


10月20日 しかし、あなたは変わることなく  詩篇102篇 宣教牧師 山宮利忠

 大きな悩みの中から歌われた賛美です。この悩みの背景は、不信の為に民ごとバビロニヤに捕囚された時の苦しみがあるかもしれません。
1.言葉に表せない苦しみでした。(3)
 その苦しみは、無為に年を重ねる苦しみであり、為すべきことの半ばで終わらねばならないかもしれない自分の生涯への悩みでした。それに加えて体も衰え、ひとり孤独の内に悩むはぐれ鳥のような自分、更に周囲からはそしりや、あざけり、毒づく言葉の圧迫、耐えられない苦しみの中で、主よ私の祈りを聞いてくださいと叫びます。
2.しかし・・・主よ、と心を主に向けます。(12,26、27)
 聖書の中には、このしかしと言う言葉は、キリストを信じる私達に希望を与えてくれるしかしです。苦しみのただ中で、解決が与えられたことが歌われます。突然の思ってもいなかった解決でした。背景にペルシャの時代になって初代の王クロスによる解放があったかもしれません。キリストの救いに似ています。
3.生きる望みをお与えになったイエス・キリスト。(第一ペテロ1:3)
 新しく造りかえられる新生の恵み、生きていける希望、天国への約束、キリストのして下さった救いの御業は、突然の解放を意味するがごとく、 喜びのおとずれとして私達に伝えられました。その憐れみは今も変わりありません。悩み苦しみの中でも、しかしと言える信仰を持つ幸いを感謝しましょう。

聖書のことば
『 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。』
詩篇102篇26節


10月27日 自分を変えるキリストの救い  コリント人への第二の手紙5章17節 宣教牧師 山宮利忠

 イエス・キリストを救い主と信じた者は、人生が変わります。その最も代表的な人物は、宣教者パウロです。しかし、もう一人奴隷オネシモも無益な者から有益な者に変えられた素晴らしい模範です。
1.彼は、求道者になりました。(11)
 奴隷の生活に飽き足らず、主人ピレモンの下から主人の金のなにがしかを盗んで逃亡した彼は、大都会ローマで自由と自分の欲望を満足させるものがあるだろうという野心は、都会の厳しさと、彼の愚かさの故にもろくも砕かれて初めて真剣に救いを求める求道者となって、パウロの元を訪れます。そこで聞いた福音は、彼の人生を変えました。
2.彼は有益な者に変えられました。(12)
 彼の生き方と、仕えるお方が変わったのです。ピレモンの下に命がけで帰った彼は赦されて、同じ環境の中でも、全く変わった生き方をすることが来ました。それは、彼が変わったからです。彼の働きぶりは、以前と違い陰日向なく有益な働きをするようになり、周囲の人にも愛されたに違いありません。
3.キリストを救い主と信じる者を主は同様に変えてくださる。(第二コリント5:17)
 主は、信じる者を新しく変えてくださいます。新しい創造、新しい命の誕生、天の御国への資格と生きる望みを与えて下さいます。キリストの救いの偉大な御業を、感謝しているでしょうか。それが、日々の生活をさらに有益なものに変えられる秘訣です。

聖書のことば
『 かれは、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。』
ピレモン書11節