2019年6月

2019年6月30日 「自分の信仰の確立」 マタイによる福音書8章5~10節

 主がおほめになった信仰がいくつかありますが、その一つがカペナウムのローマの百人隊長の信仰です。聖書を幼い時から学んだことのない異邦人である事に注目する必要があります。ここから何を学べるでしょうか。
1.信仰は、時間の問題ではないということです。
 百人隊長は、ユダヤ征服後のローマから派遣された軍人です。長いこと信仰生活をすれば立派で、主が驚くような信仰者になれるかと言うとそうでもないのです。長い信仰生活にはそれなりの多くの恵みがあります。しかしそれよりも信仰とは、質の問題だということです。
2.信仰は、謙遜こそが第一だということです。
 彼は、ローマ軍の中でも最も軍人として力のある百人隊長であり、しかも征服した民に対して、深い謙遜をもって接し、自分のしもべ(又は子)の為に主に懇願するのです。サタンは、誇り高ぶりによって堕落しました。神から離れているものを、誇りの虜にするのです。主は、当然大いなる威光もって力を示すことの出来る神の御子であるにもかかわらず、しもべとなられて世に来られ、罪人の為にご自分を身代わりとされました。謙遜は、最もかぐわしい信仰のかおりです。
3.信仰は、主のお言葉を最も大切にします。
 主のお言葉に力がある事を信じる信仰こそ、信仰を確立する秘訣です。知識も経験も、富も地位もその全てを有益にするものは、お言葉に従う謙遜な信仰から生まれます。謙遜こそ誉れに先立つものです。主が驚かれた百人隊長の信仰生涯は、誉れある生涯であったことでしょう。自分の信仰を確立したければ、謙遜を学ぶことです。

聖書のことば
『しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』
マタイによる福音書8章8節


2019年6月23日 「わざわいの日の平安」 詩篇94篇

 王の詩篇の一つで、水曜の歌とも言われています。歴代の王の歴史が背景にあると思われます。悪しき者への報復の願いと禍の日に主を避け所とする信仰が歌われています。詩篇の記者と共に信仰の告白をしましょう。
1.悪しき者は、神は気づかないという。(7節)
 選民イスラエルの民も、不敬虔な王や民があり、幼い時から神に対する恐れを教えられていたにもかかわらず、いつの間にか信仰的なものの考え方が出来なくなってくる現実に、いらだちと、現実的な苦しみに、神の正しい裁きを願うことになります。復讐してくださいは、その極みです。
2.神を信じる正しい者の平安。(12,13節)
 主の戒めと教えを聞く人は、禍の日に平安を得ることが出来ます。実は、神が与えた信仰は、困難な時にこそ真価を発揮します。メシヤなるキリストの苦難は困難な時に希望を与える、大きな慰めです。主はご自分の民を決してお忘れになりません。
3.神が悪を滅ぼします。(13節)
 人に目や耳を与えて下さった神が、どうしてすべてのことを見、聞くことが出来ないことがありましょうか。正しく知るお方が正しく裁いて下さるのです。しかし、憐れみ深い神は、たとい不信の中にあった者でも、悔い改めれば赦しをお与えくださいます。私達もその憐れみを頂いた者です。
 わざわいの日にこそ平安をもたらす信仰のすばらしさを感謝しましょう。

聖書のことば
『主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜るからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。
詩篇94篇12~13節


2019年6月16日 「主よ、いつまでも」 詩篇93篇

 天地万物の創造者こそ真の支配者、終わりのない王であることが賛美されています。王の即位式にも歌われ、王の詩篇ともいわれています。
 ここから真の支配者である神を学びましょう。
1.神は、全てのものの創造者であり支配者です。(1~2節)
 全てのものは、神の創造の御業であり、支配者であれば、全てのものは、このお方に従い、敬わなければなりません。人はあらゆるものを自分たちの為に作ります。であれば神は、全ての被造物をご自分の栄光の為に創造されたことは、当然の事です。人がその被造物の最高の存在として創造されたのですから、私達の人生の目的は、創造者の喜びとなるように、その素晴らしさを表す歩みをすることです。
 このお方は、被造物に於いて絶対的な支配者である事を証しています。人の歴史の産物がいかに大きなものであっても、その背後に神の支配があるのです。その事実を知る者には大きな平安がもたらされます。
2.大いなる支配者である真の神の御心は 聖なる事です。(5節)
  聖なる事がこのお方のご性質です。従って私達にも聖であることが願われています。聖とは、一つである事、整えられている事を意味しています。二心でなく、真実な心でまず神に仕える事、このお方を愛する事、このお方のみ心に生きることです。ここにこそ日々の生活の清さと敬虔さを生み出す源があります。
 永遠の支配者である、造り主、救い主に仕える事こそ、真の平安を持つ秘訣なのです。私たちは今、何に仕えているのでしょうか。一時的でなく、いつまでも仕えることのできる真の支配者のみ心に仕えましょう。

聖書のことば
『あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にふさわしいのです。主よ、いつまでも。』
詩篇93篇5節


2019年6月9日 「なつめやしの木のように」 詩篇92篇1~15節

 安息日の賛美と表題にあります。土曜日に歌われた詩でしょう。まず、最初に賛美をもって感謝することは、礼拝する者にとってふさわしいことです。ここには主の家に植えられた者の祝福が歌われています。
1.主の家に植えられる不思議。(13節)
 主の家とは、教会のことです。今の教会に私を植えたのは、主です。そこには不思議な主のお導きがあります。自分で選んだのではなく主がお植え下さったのだと信じられる人は幸いです。
2.主の家で成長する祝福。(13節)
 主の家に住む人は、なつめやしの木のように豊かな実を結びます。又、堂々としたレバノンの杉のようにその姿は見事で、かおり高く、有益な存在として、多くの人に役立つ神の器に成長します。
3.その生涯は高く上げられた勝利。(14節)
 人生の最後に希望がない者は、不幸です。しかし、主を信頼するものの生涯は最後までみずみずしく生い茂る木のように、その生涯の終わりは、情けなく下る生涯ではなく、高く上がる誉ある生涯を送ることが出来ます。
 祝福された生涯を送るために大切な事は、主の家なる教会にしっかりと植えられ、そこで育ち、長く住まい、全うすることです。そうすれば豊かな実を結ぶ生涯を送ることが出来ます。人生の最後に、尚、希望をもってみずみずしく過ごすことが出来ます。木も角も油もみな有益なものです。自分の為だけでなく、他者の為に有益な生涯を全うすることが出来るのです。私達は、どうでしょうか。

聖書のことば
『正しいものは、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。』
詩篇92篇12節


2019年6月2日 「み翼の陰に身を避ける」 詩篇91篇1~15節

 表題がありませんが、モーセの作と言われています。とすると内容的には、モーセから後継者ヨシュアに対しての励ましの言葉であることが推測されます。
1.主は、私達の唯一の避けどころです。(1~3節)
 神を隠れ場とする人とは、そこに長く住むことが意味されています。一時的にではありません。主が共にあると共に、私たちが共に住むのです。しかも、他人ごとではなく私が全能者の陰に宿るのです。ですから平安があります。
2.全能者の守りは偉大です。(9節)
  悪しきものの罠から守られ、全ての道で守られます。私達が気づかない巧妙なサタンの罠から私達を守り、ある時には警告を与え、助けの手を伸ばしてくださいます。モーセは、後継者ヨシュアに励ましを与え、勇気を持つように強く勧めました。その根拠は、モーセ自身が全能者のみ翼の陰に身を避け、大いなる神の御力を体験してきたからです。それは同時に私達にも当てはめられる事です。
3.私は、主を愛していますから。(14節)
 信頼するということは、愛していることに他なりません。信頼のない愛はないからです。ただペテロのように、失敗の多い私達は、まともに愛していますとは言えないかもしれません。しかし、主は愛する者を助け、高く上げ、答え、誉を与え、主の救いを見せてくださいます。私は今、何を避けどころとしているでしょうか。

聖書のことば
『私は主に申し上げよう。「わが避けどころ、わがとりで、私の信頼するわが神と。』
詩篇91篇2節