2020年1月


1月5日 貧しい者の右に立つ主 詩篇109篇 宣教牧師 山宮利忠

 報復を願う呪いの詩篇ともいわれる同態復讐法にのっとった詩篇です。恵みの時代にはそぐわないものですが、人間の自然な感情からすれば、苦しみに会わせられた者への憎しみは、消しようもないものでしょう。その思いを消すにはキリストの愛しかありません。呪いに至るほどの苦しみとは何でしょうか。
1.愛と善意に対して悪で報われたことです。(4~5)
 ダビデは、サウルに仕えて連戦連勝の勝利をもたらしたにもかかわらず、サウルの妬みをかって悪意と邪悪な言葉でののしられ、命さえも狙われ、自分の身を隠さねばならないほどの状態に陥りました。理由のない攻撃には、耐えられない苦しみが伴います。
2.神に報復を訴えます。(6~20)
 自ら報復することをダビデは決してしません。そこがダビデの神を恐れる敬虔さでしょう。しかしその訴えは厳しいものです。家庭の破壊、仕事の破たん、子孫にまでも呪い、悪しきことを刈り取るようにと訴えます。ダビデの訴えは、正しい裁きをされる神への訴えです。
3.神は、正しい者の味方である事を告白します。(31)
 貧しいものとは、自分の存在の貧しさを認めて神を慕い求める者です。神はそのようなものの味方です。神を味方とする者は、敵に勝つ事が出来ます。言い難い恥辱や理由のない苦しみ、執拗な敵の攻撃に打ち勝つためには、キリストへの信仰が必要です。

聖書のことば
『 主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。』
詩篇109篇31節


1月12日 朝露のように 詩篇110篇 宣教牧師 山宮利忠

 メシヤ詩篇一つと言われ、新約への引用が最も多い詩篇です。キリストの統治と祭司としてのお働きが賛美されています。
1.とこしえの祭司としてのメシヤ。(1~2)
 メシヤの特徴としての姿がここには多く宣べられています。父なる神の右の座に着座し、王の支配の印としての杖を持ち、勝利者として永遠の祭司の務めを持つ真のメシヤとして民のとりなしをされます。この祭司は、エルサレムの大祭司メルキゼデクより偉大なとこしえの祭司です。
2.メシヤの下にある者は輝きます。(3)
 彼らは、聖なる飾り物を付けて礼拝します。それはキリストと言う着物です。心から喜びをもって、夜明け前から、自ら進んで、メシヤなる主に仕えます。彼らは、キリストにある喜びと感謝をもって礼拝し、輝いています。
3.メシヤの下にある若者は朝露のようです。(3)
 露は、毎朝静かに全ての物の上に降り、たとえ雨の降らない乾燥した地でも潤いを与えます。義の太陽である主に照らされ朝日に輝き、美しい光を発します。不安と恐れのある顔は、決して輝いた顔ではありません。メシヤの内に人生の目的と、将来の消えない希望と生きがいとを持つ者は、この世がいかに暗くあろうとかえって光り輝くのです。何故なら彼らは世の光だからです。キリストを信じる者に与えられている大いなる賜を知る者は、輝きます。

聖書のことば
『あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。』
詩篇110篇3節


1月19日 主を恐れる者の明察 詩篇111篇 宣教牧師 山宮利忠

 ハレルヤ詩篇と言われ、ヘブル語22文字を頭に於いて歌う、いろは歌です。神を恐れる者への祝福が歌われています。二つのお言葉に注目して、記者の信仰を学びましょう

1.神を恐れることです。(5,10)
 神を恐れると言う言葉には、いくつかの意味があります。そのいずれも敬虔な恐れを意味しますが、それは偉大な神の存在への限られた被造物としての敬虔な恐れであって、単なる人間的な恐怖とは、その出所も性質も異なります。聖書は、単なる人の恐れには恐れるなと教え、創造主、神に対しては恐れよと教えています。それは、畏敬と言う言葉で表すのが良いでしょう。このおそれを持つ事こそが、人が誠実にして忠実な信仰生活を送れる動機の一つです。ただ恐怖心で主に仕えというよりも、キリストにある愛による生き方こそが、キリスト者の生き方ということが真の生き方でしょう。明察とは、真理を見分ける力を意味します。何が善であり何が悪であるのか、何が神の喜び給うことであって、好ましくない事なのかを、しっかり見抜いて自分の心の判断と行動に反映することが出来ることを意味します。神は愛だから何をしても赦されると思って、罪に対する恐れを失うと、敬虔な信仰生活は送れません。間違ってもそういう生活をしてはならないのです。もしそのような考えや生活を送ることがあれば、大きく祝福を失うことになります。

聖書のことば
「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。」
詩篇111篇10


1月26日 牧師を敬う7つの理由 ヨハネの福音書21章15~17節 宣教牧師 山宮利忠

 伝道所に牧師を迎えるにあたって最も大切な準備は、牧師と自分の関係を聖書に基づいてしっかりと心得ておくことです。サタンは、教会を混乱させて勝利を得ようと常に狙っていますが、特に指導者と信徒との間に問題を起こそうとしているからです。その罠にかからない為に、そして教会に祝福を頂くために、主の教えをしっかり心に留めて戦いましょう。
1.牧師は、キリストがお立てになった器です。(ヨハネ21:16)
 失敗したペテロに、私の羊を飼い、牧し、養えと命じられました。牧師は、キリストご自身から羊飼いとして立てられた器です。
2.牧師は、聖霊がお立てになった器です。(使徒20:28)
 助け手である御聖霊も、牧師をお立てになりました。御聖霊は、牧師を通して教会をお導き下さいます。
3.信徒は、牧師に従うように命じられています。(へブル13:17)
 羊飼いに従わない羊は、危険に会い易いのです。羊飼いの指導に従うことは安全です。
4.務めの故に敬うべきだと教えられています。(第一テサロニケ5:12~)
 務めとは、お言葉の教えと、教会の監督です。(第一テモテ3:1)
5.牧師は。教会が立てた器です。 
 教会が招く(招聘)のですから協力すべきなのです。
6.牧師は、按手を受けているので敬うべきです。(第二テモテ1:6)
7・牧師は、二重の尊敬を受けるべき器です。(第一テモテ5:17)

聖書のことば
「あなた方の指導者たちの言うことを聞き、又服従しなさい。この人々は神に弁明するものであって、あなた方のたましいのために見張りをしているのです。 
ヘブル書13章17節