2019年5月

2019年5月26日 「聞かれる祈りとは」 ルカの福音書18章9~14節

 私達が捧げる祈りはどんな祈りでしょうか。聞かれる祈りでしょうか。
1.聞かれない祈りをした人の祈りを見てみましょう。(11節~) 自分の正しさを理由にして祈る祈りです。確かに立派に主の掟を守っているようですが、多くの醜い思いや隠れた罪がありながら、そのような事は一切表に出さずに、人を意識しながら祈るのです。自分は、正しい事をしているので祈りを聞いて下さいと祈ります。神の前に祈る時はこのような気持ちで祈ることが多いのではないでしょうか。又、誇りたかぶりの祈りです。人と比較し、得意げに立って心の中で祈ります。言葉には出さなくても心の中で満足げに祈るのです。もしかしたら彼の願い事は、とても大きな願い事かもしれません。
2.聞かれた祈りをしている人の祈り。(13節~) 自分の本当の姿を認めて、正直に祈ります。そこに在る自分は、神の前に出ることもできない罪深い自分です。ここの罪は、悪質なという意味も含まれています。その自分をありのまま認め、さらけ出し、祈る態度も顔を上げることもできず、遠く離れて自分の胸を打ちたたきながら祈るのです。そして、神の赦しと憐れみを求めます。
3.聞かれる祈りとはどんな祈りでしょうか。
(1) 謙遜で自分の内面をありのまま認め、態度にも表れて祈る祈りです。
(2) 神だけが私の本当の姿を知っているので、神の赦しを願う祈りです。
(3) 神の憐れみを求めて、具体的に祈る祈りです。私たちは、どんな祈りを、どなたにお捧げしているのでしょうか。

聖書のことば
『・・・神さま。こんな罪人の私をあわれんでください 』
ルカの福音書18章13節


2019年5月19日 「人の子らよ、帰れ」 詩篇90篇

 第四巻の初めで、モーセの歌であれば、最古の歌かもしれません。民数記に対応します。葬送の歌として用いられていますが、人生のはかなさと、時の支配者である真の神に立ち返る事の大切さが教えられます。
1.人の一生は、実にはかないものです。(5~6節) 人は、創造の初めに地の塵によって造られ、神の息を吹き込められて生きるものになりました。ですから肉体はやがてチリに帰る定めです。人生は花のごとく、やがて散り枯れます。その齢は、70年か80年でその時は、機の杼のごとく早く過ぎてしまいます。人は、ちりに等しいものだという事を忘れてはならないのです。
2.自分に与えられた時をしっかり数える知恵を持たねばなりません。(12節) 時は神がお与えになるもの、各自に与えられている時には、それぞれ終わりがある事、しかもその終わりが何時やってくるか分からないのですから、今日と言う時を大切にしつつ、最後の時に対して準備をする事等の知恵をしっかり持つ必要があります。明日があるから大丈夫だと、明日を誇ることは、知恵のない事です。今日という日に与えられた使命をしっかり果たすことです。
3.ですから時の支配者である真の神に立ち帰らねばなりません。(3,17節) 人に帰るところがある事は幸いです。すべての人には、魂の故郷があります。そこに立ち帰るには、反逆の罪を悔い改め、赦しを与えられた救い主を信じなければなりません。その時にこそ人の人生は、確かなものになります。私達は、この知恵を持って生きているでしょうか。

聖書のことば
『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」』
詩篇90篇3節


2019年5月12日 「わたしはわたしの契約をやぶらない」詩篇89篇

 第三巻の最後の詩篇でレビ記対応の歌は終わり、第四巻に移ります。
 レビ記の最後に相応しく。神の契約の真実さが歌われています。
1.神の契約は、遠大な計画によるものでした。(1節~) 神が人類に約束した愛の契約は、神に反逆したアダムの堕落から始まりました。長い人類の歴史を通じた長くて大いなるご計画です。我儘な息子が家を飛び出していく後姿を見送る父親が、その瞬間から息子の帰りを願って待ちわびるように、神は、人類の赦しの計画を直ちに実行されます。一人の敬虔な神の友アブラハムを選び、その子孫からダビデを選び、そして人類の救いの為にメシヤなるキリストによって救いの計画を実行されました。
2.神の契約は、人に理解できない形で実行されました。(38節~) 人類の罪と死を負って苦しむ苦難の王として、人に捨てられ、そしられ、辱められて、命を捨てるみじめな王として、人の目には決して人類に救いを与える偉大な王としては見られない姿で、神は約束の実行をなさいました。
3.神の契約はキリストの十字架と復活によって果たされました。(34節~) 人類の罪の身代わりの刑罰と、死より甦るあらゆるものの支配者としての王として、ダビデのように武力に依らず、この世の支配者としてではなく、神の国の王として、罪深い裏切り者の私達を赦し迎える形で真の王となられて、神の契約の真実は果たされました。大きな計画に基づいて救われた私たちは、どれほど感謝しているでしょうか

聖書のことば
『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。』
詩篇89篇34~35節


2019年5月5日 「朝明けに」詩篇88篇

 マハラテ・レアノテとは、悲しみと嘆きを意味し、重い疫病にかかって隔離されている者の歌と思われます。(18)「最も悲しい詩篇」と言われています。
1.限りない苦しみの訴えがあります。(1,6,18節) 作者は、昼も夜も叫び続け、望みを失い、絶望の中で苦しみを訴えます。神への信頼さえも失いかけているように、あたかもヨブのように呼ぶのです。悩みに満ち深い淵に落とされ、閉じ込められ、死もまじかに、親しい友からも遠ざけられて、神に忘れられているようです。人が悩みのあう時にはこのような思いになるのではないでしょうか。死に至る病は絶望です。
2.神から離れた者の人生は、空しいものです。(4節) 神に見捨てられていると考えているようですが、神が見捨てたのではなく、人が神を忘れるのです。しかし、その人生の特徴は、空しさです。ソロモンは、神を身近に置かない者の空しさを自らの体験を通して告白しています。神なき人生の悲惨は、希望を持つ事が出来ないということです。たとえ苦難の中に居たとしても、その先に希望があれば、人は耐えることが出来るものです。しかし、希望のない人生は、空虚です。
3.絶望の人生に明るい希望を与えてくれるのは復活です。(13節) 朝明けに苦しみの人の祈りが、主に届くのは、あたかも死を目の前にしたものが、死は終わりではないと主を仰いで希望を頂くようなものです。
 絶望の中ににあっても決して望みを捨ててはなりません。「わが神わが神・・・」と叫ばれた主は、復活の希望を私達にお与えくださいました。
聖書のことば
『しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。』
詩篇88篇13節