2019年8月

8月4日 私たちは、牧場の民です  詩篇95篇  宣教牧師 山宮利忠

神殿礼拝の歌として、礼拝者の心が歌われています。牧場の民、羊として、礼拝する者の心を学びましょう。
1、神への感謝と喜びを持って礼拝する事です。(1,2)
主は救いの岩であり、群れを導く大牧者ですから。牧者は羊を守り糧を与え、正しく導く羊飼いです。この方の下にある私達は安全です。良い羊飼いは羊の為にいのちをかけて守ってくださるのですから。イエス・キリストは、まさしく完全な羊飼いですのでこのお方に導かれる者は、安心です。ですから、大いに感謝をもって喜び賛美しましょう。
2、このお方に従う者は、心を頑なにしてはならないのです。(7~8)
過去の民の例から学ばねばなりません。エジプトから救出された民は、荒れ野での生活に呟き、主を試みます。その結果は、結局自らの更なる困難でした。私達も先の判らない困難に会う時、主の導きを疑い、平安をも失って呟くことがあるのではないでしょうか。主への心を瞳のように守って、主に従う事です。
3.神の御業は、人の思いを越えたものだからです。(10)
 先見の力をもって神は、信じる者の最善を計ってくださいます。ですから、呟かず、疑わず主の導きに従うことです。たとい難しい問題であっても、神は、それ相当の報いと適切な解決を用意して下さいます。教会には、大牧者から群れを導く為に委ねられた器が主によって立てられています。罪赦された同じ人間に過ぎない牧師が、群れを導くには、互いに立場を認め教会を建て上げていく事が必要です。それは互いの益の為なのですから。

聖書のことば
『 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなた方の心をかたくなにしてはならない。』
詩篇95篇7~8節


8月11日 御救いの良い知らせを告げよ  詩篇96篇  宣教牧師 山宮利忠

 背景的には、ダビデが契約の箱をペリシテから取り戻してダビデの町へ運び入れる時に歌われたものと思われます。イスラエルにとっては世界へ良い知らせを伝えよという珍しい世界宣教の賛美です。
1.全世界が真の神をほめたたえよるべきこと。(1~3)
 造り主の神は、唯一の神であり、真の神です。偽りの神ではなく真の神をほめたたえるべきです。しかも代々かたり伝えるべきことです。
2.全世界が真の神の前に恐れおののくべきこと。(9)
 真の神を恐れる理由は、全て知るお方であり、全ての事を行うことの出来るお方だからです。善悪の完全な判断者であり、しかも完全な愛をおもちのお方だからです。私達の与えられるすべての栄光を神に帰し、栄光を神に返すべきなのです。神が与えて下さった祝福を、あたかも自分の努力でしたかのように思うものですが、如何なることも神の助けなくしてなされたものはないわけですから、全ての栄光を主に帰することが私達の務めです。
3.全世界に福音を伝えるべきこと(13)
 福音は全ての者に伝えるべきことこそが、メシヤなる主のご命令です。教会の存在の最大の理由は、福音宣教です。この大きな責任を私達は、主から与えられています。その正しさと報いは、主が再び来られるときに明らかにされます。

聖書のことば
『 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、全ての国々の民の中で。』
詩篇96篇3節


8月18日 正しい者たちは主にあって喜べ 詩篇97篇  宣教牧師 山宮利忠

一連の王の詩篇の一つ。王の即位の歌と言われています。真の王の王である主イエス・キリストとして、この詩篇から学びましょう。
1.全ての神々は、真の王の前にひれ伏さねばなりません。(7)
真の王は、火のようであり、稲妻のようです。火は、全てを焼き尽くし清め、周囲を照らす明かりとなり目印となり、有益で人の生活に不可欠です。稲妻は、突然起こり、大いなる力を持ってものを砕き、人を恐れに満たします。真の神はその如くです。
2・全ての神々は、真の王の前にひれ伏します。(7)
 人の作った神々は、全て偽りの神々であって、人を愚かにし、貪欲にし、偽りの安心を与えるものです。真の神以外の物を神とした者の生活は、混乱と堕落ですが、真の神は信じる者を真の平安と幸いへと導きます。
3.真の神への礼拝は、喜びと感謝をもって捧げられます。(12)
聖い神に仕える者の心は、悪から離れることです。「私が聖であるから、あなたがたも聖でありなさい」というおことばが、主の御心です。希望をもたらす光が、信じる者の生涯に蒔かれています。闇を追いだす光の主は。主イエス・キリストです。主にあって喜び、感謝をもって礼拝することこそ、健全で正しい聖徒の姿です。あらゆる人間的な肉の思いを虜にして、感謝をもって礼拝しましょう。

聖書のことば
『 正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。』
詩篇97篇12節


8月25日 自由を捨てる真の自由 コリント人への第一の手紙9章19~23節 宣教牧師 山宮利忠

 私達は、自由を束縛されたくありません。自分の思った通りにしたいのですが、そうはいかない現実との戦いがあります。聖書は人の持つ自由に関してどのように教えているでしょうか。
1.神は、人に自由をお与えになりました。
 人は自由に神を信じ愛し従うように創造され、被造物の中で唯一神と交わるものに創造されました。その為には、自由な意志がないと成り立ちません。しかし、最初の人アダムは、その素晴らしい自由な意志を、従わない自由として使ったのです。これこそ神に反逆する罪の根源です。この自由意志の乱用によって、人は神のみもとから追放され、滅びの道を歩むことになりました。
2.真の自由の模範
 各自に与えられている自由をどの様に使うか、その模範は、イエス様の内に見ることが出来ます。又、パウロの中にもみることが出来ます。そこには、自分の自由を捨てて、他者の奴隷になる姿を見るのです。これは、奴隷となったといえどももはや奴隷ではありません。自由に自分の権利を捨てて、自分から奴隷になったのですから。
3.真の自由人とは
 罪と滅びから解放された聖徒は、自由な人です。さらに自分の権利を捨てて仕える道を選んだ人は、本当の自由な人です。神は、この自由を求めておいでなのです。自分の権利を他者の為に捨てることのできる人は、真の自由を持つ人と言えます。この自由人こそ、主が用いてくださる真の自由なのです

聖書のことば
『 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。』
コリント人への第一の手紙9章19節