2021年5月


5月2日 恵みと知識において成長を ペテロの手紙第二 3章14~18節 次期牧師 小泉 崇

 今朝でペテロの手紙第二を読み終えます。先週、主が忍耐をもって悔い改めに進む者を待っておられること、そして主の日にこの世界は崩れ去り、義の宿る新しい天と新しい地が現れることを学びました。
 第一に、来たるべき主の日に備えることです。
 それは「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように」ということです。つくば伝道所は今、新しい歩みに向けて備えています。社会でも学校でも、やがて始まる新生活に向けて備えるのです。同じように、私たちは来たる「新しい天と新しい地」の住民として神の前に出るにふさわしい歩みへと日々整えられていく者でありましょう。
 第二に、堅実さを失わないよう、よく気をつけることです。
 主の日はまだ先だから大丈夫だと思ってはいないでしょうか。主への熱い求めが失われていないでしょうか。罪赦されて神の子とされている恵みを忘れてはいないでしょうか。私たちは弱い者です。救われているのに、救われていない者のような歩みへと引き込まれてしまうことがあるのです。惑わされることなく、主の御言葉にしっかりとどまり続けましょう。
 第三に、主の恵みと知識において成長することです。
 私たちの霊的成長は止まっていないでしょうか。求められていることは、自らの力によるのではなく、主の恵みによる成長です。さらに主との交わりを通して主を知ることです。日々みことばにより養われ、祈りを通して主に近づき交わりましょう。そして、主のおからだなる教会につながり、互いに愛し励まし合いながら、主の日を待ち望む者でありましょう。

<聖書のことば>
「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」
ペテロの手紙第二 3章18節


5月9日 主は、あなたを忘れない イザヤ書49章13-16節 牧師 小泉 崇

 本日は母の日です。今朝は、聖書を通して語られている神の愛に目を向けましょう。
 第一に、「主は私を忘れた」との嘆きです。(14)
 神に背を向けて歩み続けて来た神の民イスラエルは、バビロン捕囚という痛みを受けます。神は見捨てないとの励ましの約束が与えられますが、神の民は「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と嘆くようになるのです。今日も、聖書を通して語られている神の愛、主イエスの十字架と復活を通して与えられる神の救いのメッセージを受け入れられない人は多いのです。また信じている私たちも神の愛を忘れやすい者ではないでしょうか。悩み苦しみの中で「主は私を忘れた」嘆いてはいないでしょうか。
 第二に、「主は、あなたを忘れない」との約束です。(15)
 しかし、それは事実ではありません。神は「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」との問いに続き、「たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」と約束して下さるのです。神と神の民とは強く深い絆で結ばれています。親よりも深い愛をもって、神は私たちを今も愛して下さるのです。神は私を知り、育まれ、責任をもって生涯を導いて下さるお方です。 第三に、「手のひらにあなたを刻んだ」との愛の証です。(16)
 その愛の証として神は、民の名を手のひらに刻まれており、それは決して消されることはありません。今も私たちはこの愛の中に生かされているのです。主はあなたを忘れないお方です。主を見上げ歩み出しましょう。

<聖書のことば>
「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」
イザヤ 49章15節


5月16日 主とともに前進を ヨシュア記1章1-9節 牧師 小泉 崇

 つくば教会は一地方教会として発足し、新たな道を歩み始めました。今後の私たちが祝福をいただくために必要なことは何でしょうか。
 第一に、主の約束を信じることです。
 神の民イスラエルは、40年間の荒野での歩みの後、約束の地へと足を踏み入れます。それに先立ち、神は「約束したとおり~すでにあなたがたに与えている」(3)とヨシュアにお語りになるのです。主の福音により救われた私たちには、すでに罪と死に対する勝利が、主にある永遠のいのち、豊かな祝福が約束されています。主の約束を信じましょう。
 第二に、ともにおられる主を見上げることです。
 神の民に約束の地を受け継がせるという大きな仕事を引き継いだヨシュアには、恐れや不安があったに違いありません。神は「あなたとともにいる」(5)とお語りになります。これ以上の励ましがあるでしょうか。全地全能なるお方がともにおられ、見捨てないと約束して下さるのです。
 第三に、主のお言葉に従うことです。
 主のお言葉に従うところに祝福があります。弱さや足りなさがあっても、信じて見上げるなら、従う者の「前にたちはだかる者はいない」のです。ですから前進することができます。私たちの歩みには、すでに確実になった祝福が約束されていることを覚えて今週も歩み出しましょう。

<聖書のことば>
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
ヨシュア記1章9節


5月23日 あなたはどこにいるのか 創世記3章8-10節 牧師 小泉 崇

エデンの園において、人が罪を犯し御顔を避け、身を隠した際に呼びかけられた主のお言葉です。

第一に、主の御顔を避け、身を隠した人の姿です。
人は神との親しい交わりの中に置かれていました。しかし、一つの違反によって罪が世界に入ると、その交わりは絶たれたのです。人が犯した罪ゆえに恐れと不安を抱きつつ、主が近づかれるのを聞くと、「主の御顔を避け」「身を隠す」ようになってしまったのです。

第二に、全知なる主の呼びかけです。
神である主は、すべてをご存知のお方です。言葉や思い、行動はもちろんのこと、その生まれる前から私たちを知っておられるお方なのです。ここで主は、罪を犯したその日、人がどこにいるのか、何をしたのかをご存知の上で、呼びかけられていることを覚えましょう。

第三に、愛に満ちた呼びかけです。
罪を犯した人に対して最初の問いかけは、「何をしたのか」ではなく、「どこにいるのか」でした。罪により失われてしまった関わりを取り戻すために呼びかけられているのです。主と私の関係はどのような状態でしょうか。今週も共におられる主を覚え感謝しつつ歩みましょう。

<聖書のことば>
「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。 「あなたはどこにいるのか。」」
創世記 3章9節


5月30日 失われた者を捜して救うために ルカの福音書15章1-7節  牧師 小泉 崇

ルカの福音書15章には、失われた者を捜し求める神の愛が豊かに表されています。今朝は失われた一匹の羊のたとえから見ていきましょう。

第一に、失われた羊を覚えておられるのです。
ある人が百匹の羊を所有していました。そのうちの一匹がいなくなってしまいましたが、この人は「いなくなった一匹」がどの羊かをよく知っていたのです。それと同様に、私たちは主によってよく知られ、常に覚えられている存在であることを確認しましょう。

第二に、失われた羊を捜し求めてくださるのです。
失われた一匹は、単に百分の一の存在ではありませんでした。九十九匹を残し、いなくなった一匹を捜しに出かけるのです。相当の犠牲が伴ったのではないでしょうか。一方、失われた羊は自らの足で戻ることはできず、無力で、捜し出してもらう他、道がなかったのです。同じように主は、滅びに向かっていた私を捜し求めて下さいました。

第三に、主は失われた者を捜して救うために来たのです。
自らの創造主である神に背を向け、滅びへと向かって歩む私たちを、主は覚え、見出し、十字架において自らを犠牲にし、救い出して下さいました。このお方のもとに帰るなら、主の喜び、主の平安のうちに歩む道が約束されているのです。今週も主に覚えられていること、見出されたこと、救われていることを喜びつつ歩み始めましょう。

<聖書のことば>
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
ルカの福音書 19章10節