2021年1月


1月3日 主を待ち望む者 イザヤ書30章1~18節 次期牧師 小泉 崇

 預言者イザヤの時代、当時のイスラエルは北から迫り来るアッシリヤの脅威にさらされていました。いつ攻め上って来られるか分からない恐れと不安の中に置かれていたのです。
第一に、主に尋ね求めなかったのです。
 危機的状況の中で、イスラエルは何を決断したのでしょうか。それは北からの脅威に対して南のエジプトに助けを求めるという決断です。しかしそこには重大な問題がありました。主にお伺いしていなかったのです。何事でも主のみこころを求めず、主以外のものに助けを求めているなら、「罪に罪を増し加える」ことになるからです。
第二に、主に信頼することです。
 彼らにはまず、主を信頼してみこころを尋ね求める必要がありました。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」と神は語られますが、これは難しいことなのかも知れません。彼らは「これを望まなかった」のです。私たちはどうでしょうか。「救い」と「力」は主から与えられるのです。主を信頼しましょう。
第三に、主を待ち望むことです。
 主なる神は、「恵みを与えようと待ち」、「あわれみを与えようと立ち上がられる」お方です。私たちは神の恵みとあわれみにより滅びからいのちへと救い出されました。主は変わらぬ愛と御手により今も私たちを恵もうと待っておられ、私たちのために立ち上がって下さいます。この年も主に信頼を置き、主を待ち望む者として心新たに歩み始めようではありませんか。

<聖書のことば>
それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。」
イザヤ書30章18節


1月10日 神の教会を監督する 使徒の働き20章17~38節 宣教牧師 山宮 利忠

 先回は、牧師の羊飼いとしての務めを学びました。今回は、監督としての務めを学びましょう。良い監督に指導されるチームは、勝利し、喜びがもたらされます。
1. 良い監督は、主に仕えます。(19)
 主に仕えるが故に、教会に仕え人に仕え、仕事にもつかえるのです。キリスト教徒の基本的在り方は、いかなることも主に仕え、主のごとく謙遜の限りを尽くして、働きます。このことを学ばないと多くの問題が生じ、自らも疲れ果ててしまいます。しかし主に仕えるなら豊かな報いを得るのです。
2. 良い監督は、自分の命を惜しいとは思いません。(24)
 主から与えられた任務を果たし終えることが生涯の目標です。そこがゴールなのです。ただ神の栄光の為にある人生、これは全ての聖徒の目標でもあります。人生の終わりに、欠けたところは沢山あったけれど、主の為に生きた充実した人生であったと言える人は幸いです。
3. 良い監督は、自分の務めを果たそうとします。 26~27
 パウロは、神の救いの計画を余すところなく伝えたので後のことに関しては責任がないと宣言します。それほど大切なことを短時間でしっかり伝えたということは、驚異的です。教会には、戦いが多いのですが、監督と共に戦う聖徒が多ければ多いほど主の家は栄えます。牧師と共に、主のお体を守ろうとする聖徒の一人となって、主に仕える如く、監督に仕える人は、自らも、また他の人にも益をもたらす事になります。

<聖書のことば>
「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証する任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」
使徒の働き20章24節


1月17日 主に拠り頼む人生 箴言3章5~6節 次期牧師 小泉 崇

 2021年の新たな歩みがスタートしています。今朝は箴言の御言葉を通して祝福された信仰生活のための知恵と教えをいただきましょう。
第一に、心を尽くして主に拠り頼むことです。
 日々私たちは、心を尽くして主に拠り頼む人生を送っているでしょうか。自らに問いかけてみましょう。先回イザヤ書からイスラエルの民の不信仰、即ち、見えない主にではなく、強大な力を持つエジプトに拠り頼んでしまう弱さから学びました。気がつけば「自分の悟り」に頼り、自分の経験や判断を優先させてしまう弱さ、罪深さが根強く残っているものです。何よりもまず私たちは、主に拠り頼む者でありましょう。
第二に、行く道すべてにおいて、主を知ることです。
 心を尽くして主に拠り頼む人生とは、「行く道すべてにおいて、主を知る」歩みです。私たちはもはや一人ではなく、常に主がともにおられる人生の中へ招き入れられているのです。良い時も悪い時も、順調な時もそうでない時も、永遠の主なる神がともにおられ、最善のご計画のうちに導いて下さることを覚えましょう。それは私の歩みのみならず、教会の歩みにおいても同じことが言えるのではないでしょうか。
第三に、主があなたの進む道をまっすぐにされるのです。
 心を尽くして主に拠り頼む人生を送るならば、「主はあなたの進む道をまっすぐにされる」と約束して下さいます。いかなる状況の中に置かれても、最も安全で確かな道を、揺るぎない平安の中で歩ませていただけるのです。主に拠り頼む人生こそ主とともにある私たちにふさわしい歩みであり、主は私たちの進む道を「まっすぐに」されるのです。

<聖書のことば>
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」 
箴言3章5~6節


1月24日 主を知る者に ペテロの手紙第二 1章1-2節 次期牧師 小泉 崇

 本日よりペテロの手紙第二に入ります。この書を記したのはペテロです。彼は自らを「イエス・キリストのしもべであり使徒」として紹介しています。この書の宛先は「私たちと同じ尊い信仰を受けた人々」です。手紙の差出人と受取人には共通した信仰の土台が据えられていることが分かります。それはどのような信仰なのでしょうか。
第一に、主の大いなる恵みを知ったのです。
 ペテロは、この「信仰」が「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義」によるものであることを証しています。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25)主イエスが備えて下さった義によって、私たちは計り知れない救いの計画を聞きました。大いなる恵みを知ったのです。
第二に、主を信じる信仰によりいのちを得たのです。
 私たちは知っただけではありません。心に主を受け入れ信じる者たちです。当時のキリスト者たちは「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており…」(Ⅰペテロ1:8)と記されていますが、今私たちも信仰により主を見上げ、主を愛する者たちです。主を信じる者に与えられる罪の赦しと永遠のいのち、神の子としての立場と新たな歩み、栄えに満ちた喜びが与えられています。
第三に、主を知ることにより恵みと平安が与えられるのです。
 先週も見ましたが、主を信頼し、主を知る者には、最も安全で確かな道、揺るぎない恵みと平安が約束されているのです。今週もみことばに励まされ、さらに主を知る者として天の御国へと至る主の道を歩み続けましょう。

<聖書のことば>
「神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」
ペテロの手紙第二 1章2節


1月31日 恵みによる成長 ペテロの手紙第二 1章3-7節 次期牧師 小泉 崇

 先週からペテロの手紙第二に入りました。今朝は冒頭の挨拶に続いて、主を信じる者に与えられている恵みの成長について学びます。
第一に、神の召しです。
 当時のキリスト者たち、そして今私たちもまた、神に召され、神を知ることができるようになりました。それは一方的な神の恵みによるものです。「ご自身の栄光と栄誉によって」救いへと召して下さり、「いのちと敬虔をもたらすすべてのものを」与えて下さるのです。力強い主の御力に支えられて、私たちは日々永遠のいのちに生かされ、主に喜ばれる敬虔な歩みへと進ませていただくことができます。
第二に、神の約束です。
 さらに、「尊く大いなる約束」が与えられています。それは「終わりの時に現されるように用意されている救い」(Ⅰペテロ1:3)です。私たちはその約束によって、「この世の腐敗を免れ」、「神のご性質にあずかる者」となります。滅びに向かう罪の世とその中に渦巻く自分勝手な欲望による支配から解き放たれ、神の約束に生きることができるのです。「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」(Ⅰヨハネ2:17)
第三に、あらゆる熱意を傾けることです。
 与えられた信仰の上に「徳・知識・自制・忍耐・敬虔・兄弟愛・愛」を加えていくことが勧められています。信仰告白・バプテスマが私たちのゴールではありません。私たちは「神のご性質にあずかる者」、天の御国を目指す者として、あらゆる熱意を傾けて、日々成長させていただきましょう。

<聖書のことば>
「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
ペテロの手紙第二 1章5~7節