2020年2月


2月2日 神を恐れる者の祝福 詩篇112篇 宣教牧師 山宮利忠

 111篇と同じいろは歌で、神を恐れる者の祝福が歌われています。ここから5つの祝福を学びましょう。
1.神を恐れるなら子孫が祝福されます。(2)
神を恐れる信仰を親が持てば、子供は自ずと神を恐れることの重要さを、親の姿勢を通して学びます。神を恐れる一家の祝福は、子孫にまで及び、聖なる家族の祝福に預かります。
2.神を恐れるなら物質的にも祝福されます。(3)
 主を誘惑したサタンは、この世の栄華を見せてサタンへの礼拝を求めました。豊かさは、時に人を欲望の虜にします。しかし、全ての物は神の物であり、その支配下にある事を知る者は、なくてならない物を欠かすことなく与えられ、それは尽きることがないのです。富におぼれることはありません。
3.神を恐れる者は、人から信頼と尊敬を受けます。(5)
 富をもって人の尊敬や信頼を受けることがあるとすれば、それは神を恐れつつ与えられた富を神の栄光のために使おうとするところにあります。
4.神を恐れる者には、安らぎが与えられます。(6~8)
この世の物に心を動かされない確固としたあゆみが出来ます。それはこの世が与えることのできない平安をもたらします。
5.神を恐れる者には、栄誉が与えられます。(9)
 人生の最後に与えられる栄誉は、神に感謝することの出来る栄誉であり、多くの人からの称賛でもあります。そんな人生を送りたいものです。

聖書のことば
「ハレルや。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」
詩篇112篇1節


2月9日 身を低くされる神 詩篇113篇 宣教牧師 山宮利忠

 ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わるハレルヤ詩篇です。114篇1節によってエジプト詩篇ともいわれています。過ぎ越しの祭りで用いられました。この詩篇のテーマである二つのことを学びましょう。
1.自らを高くされる神(3)
 主の御名が三度繰り返され、あらゆるものの上にいます神がほめたたえられています。神の栄光は、天の上にあり、それはとこしえに及び、栄光は全地に満ちています。このお方に比べられるものはなく、その偉大さは、ほめたたえるほかに術はありません。
2.自らを低くされる神。(6)
 栄光の神が、チリ、あくたに等しい者の為に身を低くされ、人の立場と人の目線に自らを置き。ゴミ捨て場から私達を引き上げてくださいました。そればかりか、神の子にして下さり、キリストと共に王座に着けて下さったのです。なんと幸いなことでしょう。何と感謝な事でしょう。この恵みを知る者は、賛美する以外に主をたたえる方法がないのです。賛美こそ主の御名に相応しいのです。身を低くされた神。イエス・キリストのしもべである私達は。どれ程身を低くして、このお方に仕えているでしょうか。いのちを捨てて私をお救い下さった主のしもべである私達が、どれほど命を捨てて主に従っているでしょうか。自分に問うてみましょう。

聖書のことば
「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御座に座し、身を低くして天と地をご覧になる。」
 詩篇113篇5~6節


2月16日 栄光への脱出 詩篇114篇 宣教牧師 山宮利忠

 エジプト詩篇と言われている詩篇で、過ぎ越しの祭りに於いて賛美され、弟子達が、主が捕らわれる夜オリーブ山に向かう時に歌った賛美といわれています。エジプト脱出を通して、現在の私達の歩みについて学びます。
1.罪と世の滅びからの脱出 (1~2)
 民は、長いエジプトでの奴隷生活から解放された時に、全く神の御手の内に導かれるものとなり、指導者モーセの下に荒れ野を約束の地目指して出発しました。これは束縛からの解放です。苦しみとうめきから彼らは解放されたのです。私達も罪の苦しみとこの滅びの世からキリストによって救い出されました。
2.栄光の御国への脱出 (3~7)
 民は、荒れ野を歩まねばなりませんでした。多くの民が荒れ野を旅することは、エジプトにいる時より困難であったかもしれません。神は、この困難さの中で彼らを訓練されました。欲望や、呟き、指導者モーセに従うことなど具体的な信仰についての訓練を受けたのです。この苦しみはエジプトでの苦しみとは異なる苦しみでした。目的と希望のある苦しみだったのです。
3.神の導きに従う歩み (8)
 昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼等を正しく導かれました。マナを与え、岩から水を出して彼らの渇きを癒されました。私達は今、神のお言葉である聖書に従って誤ることなくいのちの道を歩んでいます。困難もあるでしょう。苦しいこともあるでしょう。しかし、目的のある苦しみであり、希望のある苦しみです。主を賛美しつつ荒れ野を歩んで、栄光の生涯を全うしましょう。

<聖書のことば>
「神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。」
詩篇114篇8節 


2月23日 体は一つなのです コリント人への第一の手紙12章12~27節 宣教牧師 山宮利忠

 教会に最も必要なものは一致です。キリストの体である教会に一致がなければ、病気なので何も出来ません。一致のなかったコリントの教会から一致の大切さを学びましょう。
1.教会は、異なる人の集まりです。(13~14)
 救われた者の集まりであっても、教会は異なる人の集合体である事を認めましょう。人種の違い、賜の違い、性格の違い、立場や生い立ちの違いなど、多くの違いのある人の集まりです。ですから互いに違いがあるという事を認め合いましょう。しかし、教会ほど強い絆で結ばれているところはありません。それはキリストの命によって結ばれている生命体だからです。
2.教会はキリストの体の部分から成り立っています。(12,26~27)
 体の各部分は、何一つ不必要な部分はありません。ですからあなたは、いらないとも、私は不要ですとも言えないのです。一つの部分が痛めば、からだ全体で痛み、一つの部分が喜べば、体全体で喜びます。しかも体の中で弱いと思える場所は保護されて、より一層大切にされます。教会は弱いと思えるところ以上に強くなることは出来ないからです。
3.教会が一つになるために必要なものは、愛です。(31 14:1)
 キリストの愛の実践があれば、教会は、一致を生み出すことが出来ます。キリストの命で一つにされている教会は、キリストの愛の実践によって、判る形で一つにされます。つねに主は、教会が一つになる事を祈ってくださっている事を忘れないようにしましょう。私達は今、最も一致が必要な時ではありませんか。一致を生み出すにはどうしたら良いのか、私は、教会の一致の為に協力しているか点検してみましょう。

<聖書のことば>
「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」
コリント人への手紙 第一 12章20節