2020年5月


5月3日(ライブ配信) 主のうちにとどまる ヨハネの福音書21章1~8節 次期牧師 小泉 崇

 今朝はヨハネの福音書21章から学びます。この箇所には、復活の主が弟子たちに現れ、関わられた様子が記されています。
 第一に、主であることが分からなかったのです。
 主の十字架の死と復活という衝撃的な出来事を経験した弟子たちは、エルサレムからガリラヤに帰って来ました。そこで弟子たちは、ペテロの「私は漁に行く」(3)との言葉を受けて、一度捨てたはずの網を取り、舟を湖へと漕ぎ出します。しかしそこには何の収穫もありませんでした。「夜が明け始めておられたころ」(4)主は岸辺に立たれますが、「弟子たちには、イエスであることが分からなかった」のです。夜明けの薄暗さや物理的な距離以上に、主との間にある心の距離を感じさせられます。
 第二に、主であることが分かったのです。
 夜通し漁をして何の収穫もなく疲れ果てていた彼らに、主は「子どもたちよ」と呼びかけ「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」とお命じになります。そのお言葉に従って網を打つと、驚くべきことにおびただしい数の魚が捕れたのです。彼らはかつて主に召し出された時の経験を思い出したに違いありません(ルカ5)。岸辺に立たれ呼びかけられたお方が「主」であると分かったのです。
 第三に、主にとどまり、従う者に与えられる祝福です。
 弟子たちもそして私たちもまた、主から離れては何もすることができない者です(ヨハネ15)。今週もすべてを知っておられ、最善にお導き下さる主から離れることなく、主のお言葉に従いつつ歩みましょう。

聖書のことば
「それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。」
ヨハネの福音書21章7節


5月10日(ライブ配信) 愛と喜びに包まれて ヨハネの福音書21章9~14節 次期牧師 小泉 崇

 一晩中労しても魚一匹すら捕れなかった弟子たちでしたが、夜明けの岸辺に立たれた主のおことばに従い、網を打った結果は、驚くべき大漁でした。疲労を覚えつつ湖上を漂っていた弟子たちが大きな驚きと喜びに包まれたことは想像に難くありません。今朝はその続きから見ていきます。
第一に、主の愛に満ちた備えです。
 陸地に上がった弟子たちが目の当りにしたのは、さらに素晴らしい光景でした。そこには炭火がおこされ、その上には焼いた魚またパンが・・・。主ご自身による朝の食事の備えがなされていたのです。深い愛に満ちたご配慮と、最善の備えをここに見ることができます。主は私たちの前にも立たれ、折にかなって助け、祝福してくださるお方なのです。
第二に、主の恵みを数えることです。
 主は「今捕った魚を何匹か持って来なさい」(10)と、つい今しがたご自分のみわざによって得られた恵みに目を向けさせます。網を陸地に引き上げ、弟子たちは主の恵みのみわざ「153匹の大きな魚」を数えました。さらに、「それほど多かったのに、網は破れていなかった」(11)と聖書は語ります。弟子たちは今一度主の恵みの大きさを、その目とその心にしっかりと刻みつけたことでしょう。
第三に、主の招きです。
 「さあ、朝の食事をしなさい」(12)と、恵みの食卓へ招かれます。愛の呼びかけをもって近づき、恵みを思い起こさせ、見つめさせ、豊かな養いをもって力づけて下さるお方です。今朝も祝福の手を広げて私たちを招いておられるのです。

聖書のことば
「イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。」
ハネの福音書21章12節


5月17日(ライブ配信) わたしを愛していますか ヨハネの福音書21章15~17節 次期牧師 小泉 崇

 「さあ、朝の食事をしなさい。」愛に満ちた主の呼びかけは、弟子たちを主との親しい交わりの中へと招き入れました。今朝は、食事を済ませた後の主とペテロとの会話に目を留めていきましょう。
 第一に、「あなたはわたしを愛していますか」との問いかけです。
「ヨハネの子シモン」(15)とは、ペテロの以前の呼び名ですが、主ご自身が彼を「ペテロ」(岩)と名付けたことはよく知られています。「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」と主は問われました。かつては「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と告白したペテロですが、十字架の主に最後まで従い通せなかったという負い目を感じていたのでしょう。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。ところが、その応答にもかかわらず「わたしを愛していますか」と三度も重ねて問われたことに心を痛めるのです。しかしそれは、彼の信仰回復のために有益な痛みでありました。主は私たちにも同様、「わたしを愛していますか」と問われるお方です。
 第二に、「わたしの羊を牧しなさい」との使命です。
 大牧者なる主は、ペテロの弱さ、足りなさのすべてを知り、受け止め、立ち直らせ、さらに新たな使命を与えるのです。ご自分の命をかけて愛された羊を任せると。  主の十字架が私の罪の贖いのためであると本当に分かった時、主の愛を理解することができます。そして人生が変わるのです。弟子たちが命をかけて主にお従いしたように、私たちの人生も主の前に価値ある生き方へと変えられていくのです。

聖書のことば 
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
ヨハネによる福音書21章15節


5月24日(ライブ配信) わたしに従いなさい ヨハネの福音書21章18~25節 次期牧師 小泉 崇

 「わたしを愛していますか」と問われたペテロは、復活の主の愛と赦しのうちに再び立ち上がり、新たに歩み始めようとしています。今朝は「わたしに従いなさい。」との主のお言葉に心を向けてまいりましょう。
 第一に、最善の主のご計画です。
主はペテロの過去、現在、未来~彼がどのような死を遂げるのか~をご存知のお方です。そしてその死を通しても神の栄光が現わされるのです。信仰者の生涯は最善のご計画のうちに、その幕が閉じられる時にも神の栄光を現わします。私たちのすべては主のものであり、すべてのことに神の栄光がかかっているのです。
 第二に、自らを見つめることです。
ペテロは自分の死について聞かされた後、ヨハネの今後について気になり主に尋ねるのです。主は「あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」とお答えになります。互いに愛し励まし合うことは大切な教えですが、必要以上に他の人が気になり、心を乱してしまうことがあるものです。まずは主と私との関係がどうであるか、その心の内をしっかりと見つめていく必要があります。
 第三に、主に従うところにある祝福です。
主に従う歩みには不安や恐れではなく喜びがあります。不自由さではなく自由と平安があるのです。網を捨て主に従い通したペテロやヨハネたち、そして何よりも十字架の死にまでも従われた主を覚えつつ、私たちも生ける主のお言葉に従って日々歩み続けたいものです。

聖書のことば
「イエスはペテロに言われた。『わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」
ヨハネによる福音書21章22節


5月31日(家庭礼拝) 確かな歩みを 箴言16章1~9節 次期牧師 小泉 崇

 2020年5月が終わろうとしています。今朝は箴言のお言葉を紐解き主のみこころに心を向けましょう。
 第一に、人の計画です。
 「人は心に計画を持つ」(1)「人は心に自分の道を思い巡らす」(9)とあります。この一年、あるいは数年、さらに将来について私たちは思い巡らしつつ計画を立てて歩み始めるものです。しかし、実際歩き始めてみると、思い通りに事が進まない現実と向き合うのではないでしょうか。私たちの人生の歩みには、現在世界中が向き合わされているような想定外の事柄が度々起こるのです。
 第二に、主の計画です。
 先週も学びましたように、主ご自身も計画をお持ちであるということです。今朝のお言葉には、「主が人の歩みを確かにされる」(9)と記されています。愛なる神は、すべてのこと(過去~現在~未来)をご存知の上で、最善の御手によりお導き下さっているのです。私たちは明日のことさえ分からない者ですが、主は明日をも司っておられるお方です。私たちにとっては想定外であっても、主にとってはすべてが想定内のうちに起こっているということです。
 第三に、主に信頼してお委ねすることです。
 一方的な恵みによって救われた私たちで
す。ともにおられる主が、その後の歩みをも成し遂げて下さるならば、それは何と素晴らしいことでしょうか。私たちが成すべきは、主に信頼して、私のすべての道を最善の御手にお委ねすることです。私たちは確かな歩みの中に招き入れられているのですから。主に喜ばれる(詩37:23)心新たに一週間の歩みをはじめましょう。

聖書のことば
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。
箴言16章9節